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【明智光秀と織田信長】二人の出会いと関係性とは?

【明智光秀と織田信長】二人の出会いと関係性とは?

長い日本史の中でも小説やテレビ番組で取り上げることの多い戦国時代、この時代はさまざまな戦いと人間ドラマが生まれ、歴史の学びや感動を与えてくれます。中でも、明智光秀織田信長の二人の関係は濃密で、現在までに多くの創作作品の題材にされてきました。戦国時代の三英傑の一人・信長と、その有力な家臣でありながら「本能寺の変」で信長を葬った光秀。二人の関係とは、どのようなものだったのでしょうか。

今回は、光秀と信長の出会いから、光秀の功績と二人の関係性についてご紹介します。

光秀と信長の出会いとは

日本歴史上でも濃密な関係といえる光秀と信長、その関係の始まりはどのようなものだったのでしょうか。二人の出会いについてみていきましょう。

信長に仕える前の光秀

斎藤道三
光秀が最初に仕えていたとされる斎藤道三です。

光秀は最初から信長に仕えていたわけではなく、もとは美濃国の斎藤道三に仕えていました。道三とその息子である斎藤義龍(よしたつ)が争った「長良川の戦い」で、道山は義龍に敗北。道山側についていた明智家は義龍勢に明智城を攻められ一族離散の憂き目にあいました。その後光秀は、朝倉義景を頼って越前国に逃げ、この地で食客として10年過ごします。朝倉家には、兄・足利義輝を殺害された室町幕府の将軍である足利義昭も援護を求めて訪れており、光秀と義昭はここで知り合いました。

信長と義昭の仲介役となる

越前国の朝倉家に食客として身を寄せていた光秀と義昭ですが、朝倉氏は義昭を救援する気がありませんでした。そのことを知った義昭は他の支援先を探すことになります。当時、今川義元を桶狭間で破り美濃を制圧した信長は、数ある戦国大名の中でも飛ぶ鳥を落とす勢いであったことから、光秀は信長を頼るように義昭に助言します。こうして光秀は義昭の仲介役として信長の元を訪れますが、その際に信長から能力を見込まれ、信長に仕えるようになったのでした。

信長に仕えた光秀の働き

戦国を代表する猛将の柴田勝家や、後に天下統一を果たした羽柴秀吉ら信長傘下には有力な家臣が多くいました。そんな多くの有力家臣がいる中にあっても、光秀は信長の信頼を勝ち取っていきます。織田家に仕官したあとの光秀の功績について見ていきましょう。

将軍と信長のパイプ役だった

足利義昭
信長の力を借りることで足利義昭は将軍として上洛することに成功します。

信長の家臣となった光秀でしたが、その後も義昭と信長をつなぐ重要な役割を果たします。将軍でありながら政権を担当する実力のない義昭と、天下を統一する大義名分が必要な信長を結びつけた光秀は、両者の利害調整のために奔走しました。その結果、信長の上洛と義昭の将軍としての京都帰還が達成されたのでした。光秀のこの働きにより、戦国時代は統一に向け大きく動き出します。

数々の戦いで指揮をした

光秀はただの将軍とのパイプ役だけではなく、軍事家としても優れた能力を発揮します。「金ヶ崎の戦い」で浅井長政が裏切り信長軍が窮地に陥ると、秀吉らと共に部隊の最後尾を務め、信長をピンチから救います。また、佐久間信盛らとともに、信長を苦しめた石山本願寺や雑賀衆との戦いに参加したり、軍団長として丹波などの地方征伐を行ったりと、勝家や滝川一益、丹羽長秀ら人材豊かな信長家臣の中でも目覚ましい活躍を遂げました。

近江国・丹波国を治めた

加えて、光秀は緻密な頭脳を持っており、政治家としても活躍。自ら攻め取った丹波国や拠点である近江国の統治を信長から任せられたほどです。近江は信長の拠点である岐阜・尾張と京を結ぶ最重要地点であり、丹波国は京都から近い国の一つであることから、光秀がいかに信長から実力を買われていたかが分かりますよね。

光秀と信長の仲はどうだったのか?

明智光秀
本徳寺に所蔵されている、明智光秀の肖像画です。

光秀は本能寺にて信長を葬ったわけですが、二人の中はそれほどまでに険悪だったのでしょうか。二人の関係についてはさまざまな説が飛び交っています。光秀と信長の関係性について見ていきましょう。

光秀は信長に恩義を感じていた

光秀は斎藤道三や朝倉氏などに仕えていましたが、その実力を大いに認め、存分に能力を発揮させてくれた主君は信長だけでした。また、前述の主君たちに比べて信長は数ある戦国大名の中でも仕えるに足る有能な君主であったことも、光秀の充足感に影響したと考えられます。さらに光秀が石山本願寺との戦いで窮地に陥ったときに、信長が自ら命がけで救援に赴き、光秀の命を救ったという出来事もありました。これらのことから、光秀は信長に恩義を感じており、忠義を尽くしていたと考えられています。

信長は光秀を信頼していた

一方、信長も光秀を信頼し、重要なポストを次々と与えていました。最初に京都へ軍勢を連れて入ったときも実質の京都奉行に光秀を任命し、拠点間を結ぶ重要な地である近江国の統治を任せるなど、その実力を十分に買っていたことがわかります。多彩な家臣団の中でも軍事、政治、調整業務の全てにおいて、光秀ほどの高いレベルでこなせる家臣はまれでした。

光秀は信長を裏切ったのか?

こうした二人の関係も天正10年(1582)の「本能寺の変」で終焉を迎えます。本能寺の変は実は謎だらけの事件で、川角太閤記などたくさんの史料を歴史家が研究していますが、野望説や怨恨説、天下をとった豊臣秀吉の黒幕説など、意見が分かれています。光秀がなぜ本能寺の変を起こしたのかは、諸説あり、その真相は闇の中です。しかし、ここまで見てきた通り、光秀と信長の関係性は良好だったように思えます。果たしてその真相は……、謎は深まるばかりです。

 

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