いつの時代も文武両道の人はいるものですが、丹後田辺城主だった戦国武将・細川藤孝もそのような優れた素質を持つ人物の一人でした。彼は明智光秀の盟友としても有名で、幽斎という雅号でも知られています。次々と天下人が移り変わったこの時代、藤孝はどのように生きたのでしょうか。
今回は、藤孝の生まれから幕臣時代、織田信長のもとでの功績、信長の死後の様子や残された逸話についてご紹介します。
将軍・足利義輝に仕える
戦国時代には多くの戦国大名が誕生し、歴史の表舞台に登場しました。そのような中で幕臣として仕えた藤孝は、一体どのような出自だったのでしょうか。
藤孝の生まれから永禄の変まで
藤孝は、天文3年(1534)三淵晴員の次男として京都東山に生まれました。7歳のときに伯父・細川元常の養子となり、将軍・足利義藤(後の義輝)から偏諱を受けて、幼名の萬吉から「藤孝」を名乗るようになります。
その後は幕臣となり義輝に仕えましたが、永禄8年(1565)に永禄の変が勃発。これにより義輝は三好三人衆に暗殺され、その弟の義昭も興福寺に幽閉されてしまいます。
藤孝は兄らと協力してこれを救い出すと、義昭の将軍就任を目指して奔走することとなりました。
明智光秀との出会いとその関係性
光秀の盟友といわれる藤孝ですが、光秀の前半生が謎に包まれているため、二人の出会いについてもはっきりしたことはわかっていません。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、光秀はもともと藤孝の家臣だったようです。
足利将軍家に仕えていた藤孝は光秀と共謀し、義昭を上洛させることを計画します。上洛の援護を受けてくれる者はなかなかいませんでしたが、光秀が信長と交渉して援助を得ることに成功。義昭は上洛を果たし、藤孝は将軍を奉じて入京した信長に従いました。
長岡藤孝を名乗り信長に仕える
藤孝の計画通り上洛して15代将軍となった義昭でしたが、やがて信長との関係が悪化すると京を追放されてしまいます。藤孝はそんな義昭を見限り、信長に恭順を示したのです。
信長の家臣として活躍!
元亀4年(1573)上洛した信長を出迎えた藤孝は、恭順の姿勢を表し信長の家臣となりました。これにより藤孝は山城国長岡の知行を認められ、名字を改めて長岡藤孝と名乗るようになります。
信長の武将となった藤孝は、山城淀城の戦いで功績を挙げ、畿内を転戦するようになりました。高屋城の戦い、越前一向一揆征伐、石山合戦、紀州征伐、信貴山城の戦いとさまざまな戦いで結果を残し、光秀の与力としても活躍したようです。
嫡男・忠興が光秀の娘・ガラシャを娶る
天正6年(1578)信長の薦めにより、嫡男・忠興と光秀の娘・玉(ガラシャ)が結婚することとなります。二人はともに16歳という若さで、信長はこの婚姻に満足していたようです。二人の間には、忠隆・興秋・忠利という三人の男子と二女が生まれました。
玉は美貌の持ち主で、忠興はこの妻をことさら愛していたようです。庭から妻を見たという職人の首をはねたり、のちに妻を幽閉したりしたなどの過激なエピソードも残されています。
信長の死後の藤孝
信長の家臣として活躍した藤孝でしたが、やがて「本能寺の変」が起こり、信長がこの世を去ります。主君を失った藤孝はその後どのような行動に移ったのでしょうか。
剃髪し家督を譲る
本能寺の変のあと、にわか天下人となった光秀は「山崎の戦い」で羽柴秀吉軍と対立することになります。光秀はこのとき、盟友だった藤孝に味方につくよう再三依頼しました。
ところが藤孝はこの要請を拒否、剃髪して田辺城に隠居し、家督を息子の忠興に譲ります。あとを任された息子も光秀からの要請に応えず、光秀と関係が深かった筒井順慶も参戦を断ったため、光秀は敗死する結果となりました。
藤孝にとって光秀は、もともと自分の下で足利将軍家に仕えた存在です。盟友だったとはいえ、光秀の支配下に入ることは許せなかったのかもしれません。
田辺城の戦いの経緯
その後の藤孝は秀吉に仕え、山城西ヶ岡に3000石を与えられました。紀州征伐や九州平定での戦功により大隅国3000石も加増されるなど武将としても優れていた藤孝でしたが、主に文化人として千利休らとともに重用されたようです。
しかし慶長3年(1598)に秀吉が死去し、今度は親交のあった徳川家康に接近。慶長5年(1600)に石田三成が挙兵すると、家康側だった藤孝は三男・幸隆とともにわずか500ほどの兵力で田辺城を守ることとなります。この「田辺城の戦い」では1万5000もの大軍に囲まれましたが、藤孝側の士気は高く、藤孝の歌道の弟子が多くいた敵方の戦意も低かったため、長期戦にもつれこみました。最終的には勅命によって「関ヶ原の戦い」の2日前に講和が結ばれ、戦いは終了しています。
残された逸話について
戦国の世を戦略的に生きた藤孝ですが、秀吉も重用したように、実は文化人として大きな影響力をもつ人物でもありました。
当代随一の教養人として知られる
藤孝は和歌・茶道・蹴鞠といった文芸のほか、囲碁・料理・猿楽などにも造詣が深かったといわれています。剣術・弓術など武芸の素質も高く、腕力もあり遊泳術にも優れていたようです。
また歌人・三条西実枝(にしさねき)からは「古今伝授」を受けていました。これは『古今和歌集』の解釈を秘伝として師から弟子に伝えたもので、「田辺城の戦い」の際にはこれを知る者が藤孝だけだったため、後陽成(ごようぜい)天皇が勅命で藤孝を助けたともいわれています。
藤孝には後陽成天皇の弟宮・八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王をはじめとして、公家から武将までさまざまな門人がいました。
藤孝と小夜左文字
藤孝の愛刀として知られるのが、短刀・小夜左文字です。この刀には悲しい逸話が残されています。
ある日、左文字の所有者だった浪人の妻が盗賊に殺され、左文字が奪われました。残された息子は掛川の研師に弟子入りし、盗賊が左文字の研磨にやってきたときに仇討ちしたのです。
この逸話を耳にした当時の掛川城主・山内一豊は、この研師を召し抱えて左文字を入手しました。この刀を懇願して譲ってもらった藤孝は、仇討ち話と西行法師の歌の一節から「小夜左文字」と名づけ、その後も愛蔵したそうです。
武芸に秀で茶の湯でも
藤孝は戦国武将として優秀だっただけではなく、教養人としても優れた才能を発揮しました。関ヶ原の戦いの時点ですでに70歳近かった藤孝は、その後も京都で隠居生活をし、江戸時代に入った慶長15年(1610)に亡くなります。残された和歌には江戸時代のものもあるため、彼は最後まで文化人として過ごしたといえそうです。
歴史の授業ではあまり詳しく語られないかもしれませんが、文武両道の藤孝の勇姿は、日本史上でも突出していたといえるでしょう。
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