【橋本左内:安政の大獄で斬首】西郷隆盛も認めた男の早過ぎる死!

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【橋本左内:安政の大獄で斬首】西郷隆盛も認めた男の早過ぎる死!

幕末には志半ばで散った武士がたくさんいました。最後まで戦い抜いて命を落とした者もいますが、なかには理不尽な死を迎えた者もいます。そんな人物の一人が、神童と呼ばれながらも安政の大獄で命を落とした福井藩士・橋本左内(さない)です。
左内は西郷隆盛と交流があったことでも知られますが、その関係性はどのようなものだったのでしょうか。彼の生涯やその最期についてご紹介します。

橋本左内はどんな人物なのか?

彼は26年という短い一生を終えましたが、その内容はとても濃いものでした。どのような人生を歩んだのか、その歴史を振り返ります。

幼少期から秀才だった

左内は天保5年(1834)越前福井藩医・橋本長綱の子として生まれました。わずか7歳で漢籍、詩文、書道を、8歳で漢学を学び、15歳のときには自身を省み人生の指針を5項目に定めた『啓発録』を著しました。
当時の左内は行儀よく座って皆の話を黙って聞くような少年で、自分を誇示せず黙考していたそうです。幼少期からかなりの秀才だった彼は、生涯を通して学問や武道に励みました。

緒方洪庵に医術を学ぶ

適塾(旧緒方洪庵邸)は国の重要文化財となっており、現在でも見学可能です。

嘉永2年(1849)大坂に出た左内は最先端の医学を扱っていた「適塾」に入塾。大村益次郎や福沢諭吉らを育てた近代医学の父・緒方洪庵から蘭学を学びます。
しかし嘉永5年(1852)父・長綱が病気となり、勉強を打ち切って帰藩することになると、その後は代診に従事して患者の治療に励みました。父の病死後は、その後を継いで藩医になっています。

医師になるも江戸遊学に

一旦は医師になった左内ですが、やがて更なる勉強を志すようになり江戸遊学に出ます。蘭学者・坪井信良の塾に入り、その紹介を受けて杉田成卿に師事し蘭方医学を学習。また英語やドイツ語も習得しました。
その後は水戸藩・藤田東湖らさまざまな武士と交流を深めており、これが政治への目覚めに繋がります。

藩校・明道館学監に就任

左内を重用した松平春嶽です。(福井市立郷土歴史博物館所蔵)

混乱した時勢を知るうちに医学から離れたいと考えるようになった左内は、安政2年(1855)藩医職を解かれます。そして福井藩主・松平春嶽(慶永)から御書院番(藩主直属の親衛隊)に抜擢され、藩校・明道館の学監同様心得(教頭のような役職)になりました。まだ若い青年だった左内が越前藩士を教育する機関を任されたのは、彼がそれだけの才能をもつ人物だったからでしょう。
左内は在任中に、洋学講習所や武芸師範所なども設けています。

藩政・国政に関わるように

やがて左内は春嶽の側近として藩政に関わるようになりました。安政4年(1857)由利公正らと藩政改革に着手し、急速な近代化政策により窮迫していた藩財政の再建に成功します。
また、雄藩連合による政府の樹立や、富国強兵政策、全国規模の海防体制などを構想し、国政にも関わるようになりました。

西郷隆盛との関係は?

西南戦争後で首実検にかけられる西郷を描く、随需進斎筆「賊魁ノ首級實検之圖」です。

天才的な頭脳をもち医療や藩政に関わった左内ですが、西郷とはどのような関わりがあったのでしょうか?

一橋慶喜を将軍にすべく奔走

御書院番として江戸で奔走していた頃、左内は薩摩藩士・西郷隆盛と出会います。これからの日本に重要な人物だとして紹介された西郷でしたが、左内から見た印象は「血気盛んなだけの若者」という、あまり良くないものでした。一方の西郷も「若くてひ弱そうな奴だ」と見くびっていたようです。ところが告示を話し合うと、西郷は左内の博識ぶりに驚がく。その後は感心して尊敬するようになります。
この当時、世間は江戸幕府13代将軍・徳川家定の後継を巡る将軍継嗣問題で揺れていました。有力大名らは有事の際を考えて一橋慶喜を支持。この派閥は「一橋派」と呼ばれ、譜代大名や大奥など血統重視の保守層は従弟の紀州藩主・徳川慶福(後の徳川家茂)を擁立したことから「南紀派」と呼ばれました。左内と西郷は同じ一橋派として、ともに協力し奔走したのです。

西郷隆盛も認めていた!

出会いからもわかるように、左内は西郷からも認められていました。西郷は「先輩としては藤田東湖に服し、同輩としては橋本左内を推す」という言葉を残しており、この二人の才能に自分は及ばないと述べています。
また西郷が西南戦争で死んだ際、携帯していた革文庫の中には左内からの手紙が入っていました。西郷にとって左内は、尊敬の対象であり同志でもあった大切な人物だったのでしょう。

安政の大獄と左内の最期

将軍継嗣問題は大老・井伊直弼らにより強制的に終止符がうたれます。これにより左内の奔走は水泡に帰すこととなり、最後は26歳という若い命まで奪われたのでした。

安政の大獄で弾圧された人々

安政の大獄を推し進めた井伊直弼の蔵です。(彦根城博物館所蔵)

井伊らは勅許なしに「日米修好通商条約」へ調印し、慶福を次期将軍に決定します。これらの政策に反対する者は、謹慎を命じられたり処刑されたりしました。「安政の大獄」として有名なこの事件では、尊皇攘夷や一橋派の大名、公卿、志士など、100人以上が弾圧されたといいます。

斬首に処された左内

安政の大獄では、一橋派だった左内と西郷も弾圧の対象になりました。西郷は追われるように鹿児島へ戻りましたが、左内は江戸北町奉行所で6度も取り調べを受けた末に死罪を言い渡されます。
吉田松陰も入獄していた江戸伝馬町牢獄に入れられた左内は、斬首されてこの世を去りました。お墓は福井市善慶寺に隣接する左内公園、南千住の回向院にも建てられています。

早過ぎた左内の死

26年という短い人生を過ごした左内。藩政や国政に携わるなど活躍しましたが、斬首という悲しい最期を迎えました。その才能は井伊らにとって脅威だったことでしょう。
彼の死がこれほど早くなければ、幕末の日本において偉業を成し遂げ、明治から現在に至るまで大きな影響を及ぼす存在になっていたかもしれませんね。

 

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