「鳥取の飢え殺し(かつえごろし / 渇え殺しとも)」をご存知でしょうか?
これは第二次鳥取城攻めの別称で、「高松の水攻め(備中高松城の戦い)」「三木の干殺し(播磨の三木合戦)」とともに、豊臣秀吉の三大城攻めの一つとして数えられています。
三木城攻略戦で激しい兵糧攻めを行った秀吉は、鳥取城でそれを上回る苛烈な攻め方をしました。一体どのような内容だったのでしょうか?
ここでは城攻めの種類や、鳥取の飢え殺しの概要についてご紹介します。
攻城戦の目的と城攻めの種類
日本史上によく見られる攻城戦にはある目的がありました。その方法にもさまざまな種類があったようです。
攻城戦とは?
日本の城はさまざまな場所に建てられ、山城は地形を活かした天然要塞に、平山城や平城は仕掛けが多く取り入れられた人工要塞になりました。
しかし、城が政治的拠点の役割も持つようになると、落城が勝利を意味するようになります。城を奪うことは、そこを拠点とする政治力や経済力を奪うことを意味したのです。
そのため、城攻めといっても城を完全に破壊することはほとんどありませんでした。攻め落とした城の城主になることもあったため、被害を最小限にとどめることも少なくなかったようです。
力攻め
戦略などは使わず戦力をそのままぶつけて城に攻め入る方法です。短期間で決着がつきますが、城からも攻撃されるため被害も甚大になります。正攻法の基本的な攻め方といえるでしょう。
兵糧攻め
城への食糧輸送ルートを断ち、備蓄された食糧が尽きるまで包囲して相手の降伏を待つ方法です。この戦術は秀吉が得意だったといわれています。
水攻め
城のそばを流れる川をせき止め、その水を城に向けて水没させる方法です。豊富な水源に恵まれることは生活する上でのメリットとなりますが、それを逆手にとった恐ろしい攻め方といえます。これも秀吉が得意とした方法で、成功を収めています。
鳥取の飢え殺しとは?
織田信長の中国攻めを担当していた秀吉は、軍師・黒田官兵衛とともに鳥取城を2度攻めました。その背景と内容について振り返ります。
第二次鳥取城攻めが行われた背景
天正8年(1580)秀吉の第一次鳥取城攻めで籠城戦が行われます。開始から3か月後、城主だった因幡国守護職・山名豊国は、和議により信長に降伏して臣従。しかし、同月に毛利輝元から攻められ、今度は毛利に降伏しました。
毛利方への従属を主張した鳥取城家臣団は、信長と内通していた豊国を城から追放します。何度かの城将入れ替えの末、鳥取城には毛利氏重臣・石見吉川家の吉川経家が入城。山名氏旧臣は毛利氏に従属し続けたため、秀吉は2度目の鳥取城攻めを開始しました。
多くの人が籠城した
第二次鳥取城攻めでは1400人ほどの兵が籠城しました。秀吉は包囲網内の村を次々と攻撃し、住人らを鳥取城に逃げ込むよう仕向けます。これにより付近の農民ら2000人以上が城に逃げ込み、兵糧はあっという間に枯渇します。これは城内に人数を大量に増やして早く飢えさせようとする秀吉の作戦でした。
米が足りなくなり……
さらに秀吉は、商人に米を高値で買い占めさせました。河川や海から毛利軍が兵糧を送り込むのも阻止し、支城も攻撃するなど徹底的に補給手段を断ったため、鳥取城は備蓄に頼るほかなくなったのです。
鳥取城に備蓄されていた兵糧は、豊国が籠城した際は充分でしたが、不作により米が高騰したことを受け、経家が入城する以前に多くの備蓄米が鉄砲や弾薬に交換されていました。そのため僅かな兵糧しかなかった鳥取城ですが、さらに2000人以上の農民が籠城したことで凄惨な状況に追い込まれたのです。
飢餓者の続出と降伏開城
兵糧米が足りなくなった城内では飢餓者が続出しました。その様子は日本史上最悪といえるほど酷いものだったと伝えられています。
人肉を食べた記録が残る
鳥取城は秀吉の進軍からわずか1か月で兵糧が尽きました。数週間後には城内の家畜や植物も食い尽くされ、4か月が経ったころには餓死者が続出します。
絶え間なく撃たれる鉄砲などで精神的にも疲弊していた彼らは、その状況から逃れようと柵をよじ登るものの容赦なく攻撃されました。そうして傷付いた者は、まだ息があっても飢えに耐えかねた人々によって解体され、食べられたといいます。
この戦いでは人肉を奪い合うという地獄絵図が繰り広げられ、最も栄養価の高い脳味噌が真っ先に剥ぎ取られました。人肉食は日本の歴史上では珍しく、この時の様子は『信長公記』や『豊鑑』に記載されています。
経家の命と引き換えに開城
凄惨な状況にいたたまれなくなった経家は秀吉への降伏を決意。経家自身と有力者たちの切腹を条件に、兵士や民衆の助命を嘆願しました。秀吉は経家を幕僚に加えようと考えており、旧山名氏家臣らの切腹を降伏条件として提示しますが、経家は自害を譲りません。
何度かやり取りがあったものの、結果的には秀吉側が折れ、経家と旧山名氏家臣らの自決とともに鳥取城は開城されました。開城後、秀吉は空腹な兵士らに食糧を振る舞ったそうですが、空腹のあまり勢いにまかせて食べた人々が次々と死亡し、生存者の過半数が命を落としたという悲惨な記録が残っています。これは極度の飢餓状態から過度の栄養摂取によっておこるショック死(リフィーディング症候群)だと考えられています。
日本史上に残る悲劇の兵糧攻め
鳥取の飢え殺しは凄惨な状況を生み出したことから、日本史上でも有名な兵糧攻めに数えられています。あまりの惨さから、創作物ではこの戦いの描写を避けることもあるようです。
通常の兵糧攻めでは降伏しなければ力攻めに転じますが、この戦いで秀吉はそのようには行動しませんでした。これには秀吉軍の死傷者を最低限に抑える目的もあり、これまでとは違う新しい城攻めの方法だったといえるでしょう。
大河ドラマ「軍師官兵衛」
放送日時:2019年10月14日(月)放送スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/kanbee/
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