【伊達政宗が愛した刀たち】燭台切光忠から太鼓鐘貞宗まで

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【伊達政宗が愛した刀たち】燭台切光忠から太鼓鐘貞宗まで

独眼竜で有名な伊達政宗は、日本刀に対して大きな情熱を注いでいたことで知られています。政宗は酒席で家臣の刀をチェックしていたそうなのですが、これは徒士衆(かちしゅう)などが相応の刀や脇差を差せないのは大将にたしなみがないせいだと考えていたからなのだとか。そのため、良い刀を所持している者は褒めて関心を持たせる必要があると近侍たちにも説いてたそうです。それほど刀を重んじていた政宗ですが、そのお眼鏡にかなったのは、どんな刀だったのでしょうか。

今回は、政宗の愛刀や、歴史に残された逸話についてご紹介します。

伊達政宗は刀コレクターだった!

伊達政宗といえば父を射殺したエピソードが有名ですよね。数々の創作作品の影響もあり、銃のイメージが強い政宗ですが、実は刀コレクターという側面がありました。

政宗が愛した刀たち

政宗に限らず戦国武将たちには刀がつきものですが、伊達政宗の場合は多くの刀を所持していました。その一部がこちらです。

  • 「黒ん坊切景秀(くろんぼぎりかげひで)」
  • 「振分け髪正宗(ふりわけがみまさむね)」
  • 「太鼓鐘貞宗(たいこかねさだむね)」
  • 「大倶利伽羅広光(おおくりからひろみつ)」
  • 「鎺国行(はばきくにゆき)」
  • 「亘理来国光(わたりらいくにみつ)」
  • 「鎬藤四朗吉光(しのぎとうしろう)」
  • 「燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)」
  • 「別所貞宗(べっしょさだむね)」
  • 「牛王吉光(ごおうよしみつ)」

これだけでも10振りありますが、他にもまだあるのですからまさに刀コレクターといえますよね。

お抱えの刀鍛冶までいた

刀鍛冶
お抱えの刀鍛冶がいたほど、政宗は刀が好きでした。

政宗は刀好きが高じて、国包(くにかね)という刀鍛冶を育成していました。国包は政宗お抱えの刀鍛冶になり、その命で京の越中守正俊のもとで学んだといわれています。その当時は刀の歴史として「新刀初期」にあたり、相州伝の刀が流行していた時期です。しかし、国包は時流とは違った古典的作風だったため、それが政宗に好まれたのかもしれません。国包以降もその一門は14代続き、明治に至るまで伊達家の抱え工として活躍しました。

燭台切光忠(しょくだいきりみつただ)

日本刀の切っ先
政宗の愛刀として知られる、燭台切光忠には恐ろしい逸話があります。

刀に対する情熱に溢れていた政宗ですが、彼の愛刀の中でも有名なのが「燭台切光忠」でしょう。その恐ろしい逸話についてもご紹介します。

有力武将のもとを渡り歩いた名刀

燭台切光忠は鎌倉時代の備前長船(びぜんおさふね)派の刀工・光忠によって作られた刀です。元々は織田信長が所有していたとされる刀でしたが、その後は豊臣秀吉の手に渡り、御座船を一艘造って献上したお礼として政宗に下賜されました。こうしてみると有力武将の間を渡り歩いた刀だったことがわかりますね。

こういった経緯で政宗の刀となった燭台切光忠ですが、やがて水戸徳川家に進上されることになります。この経緯については諸説ありますが、高瀬真卿の『水戸史談』によれば、水戸藩初代藩主・徳川頼房がこの刀を欲しがり、3代将軍・家光に相談したのだそうです。将軍から進上するよう言われたら、断るわけにはいきませんよね。刀コレクターの政宗なので、もしかしたら渋々承知したのかもしれません。

燭台切光忠は大正12年(1923)の関東大震災の際に焼失したと思われていましたが、後に発見され、現在は焼身のまま徳川ミュージアムに所蔵されています。時代背景から当初は太刀として作られたと思われる刀ですが、磨き上げられた跡があり、現在は打刀の分類になっているようです。

名前の由来となった逸話

燭台切光忠という名前の由来として、政宗が所有していた頃の逸話が残されています。
罪を犯した小姓が反省していないのを見て政宗がこの刀で斬ったところ、小姓は真っ二つになり、その先にあった燭台も切り落としたそうです。燭台を切ったから「燭台切」というある意味そのままの名前ですが、この逸話から燭台切光忠がどれほどすごい切れ味だったかが伺えるでしょう。

黒ん坊切景秀(くろんぼぎりかげひで)

備前長船派の刀工・景秀の作で、別名「鞍切景秀(くらきりかげひで)」とも呼ばれている刀です。景秀は備前長船派の祖である光忠の弟といわれているので、燭台切光忠と近いものを感じますね。名前の由来は、政宗が朝鮮に従軍した際に牛のような色黒の男を切ったからという説や、敵将を切ったときに馬の鞍まで切れたからという説などがあります。

伊達家の重臣・石川昭光から献上された刀とされており、政宗の愛刀としては最高傑作と評される逸品です。それもあってか、政宗はこの刀を特に愛用していたといいます。一時期は国宝とされていた刀で、現在でも重要文化財に指定されています。

大倶利伽羅広光(おおくりからひろみつ)

神社の龍
打刀の大倶利伽羅の刀身には、大きな龍が彫られています。

相州正宗の刀工・広光によって作られたもので、8代将軍・徳川吉宗の命により編纂された名刀リスト『享保名物帳』にも所載している刀です。名前の由来は、刀身の指裏に彫られた大きな倶利伽羅竜にちなんでいます。
政宗が徳川家から拝領したもので、江戸城の石垣修築を命じられた際の褒賞として与えられたのが、この大倶利伽羅だったといいます。ただし、当時の政宗は仙台藩にいたため、実際に拝領したのは嫡子である忠宗だったようです。それ以前の来歴は不明とされています。

仙台藩の儒者・若林靖亭(わかばやしせいてい/若林友輔)によると、この刀はすばらしい業物で、政宗が軍陣でいつも帯刀していたといいます。大倶利伽羅は昭和まで伊達家に伝わりました。

太鼓鐘貞宗(たいこかねさだむね)

相模国の彦四郎貞宗によって作られた短刀で、こちらも『享保名物帳』に所載されています。元々は堺の商人・太鼓鐘家が所有していましたが、江戸時代には徳川将軍家の所有となっていたようです。元和3年(1617)には徳川頼宣から2代将軍・秀忠に献上され、その後は秀忠の養女・振姫が伊達家に輿入れする際、忠宗に下賜されたといいます。
こうして「太鼓鐘貞宗」は仙台藩伊達家に代々伝わる刀となり、現在も重要文化財に指定されています。

形を変えて紡がれる政宗の刀愛

7振りの日本刀

戦国武将として高い人気を誇る伊達政宗ですが、刀コレクターという意外な一面もありました。現在、日本刀はテレビやスマートフォンゲームで登場することも多く話題となっていますが、その中でも政宗の刀は特に注目を集めています。政宗の愛刀に対する熱意は、形を変えて現代に引き継がれているといえるでしょう。

 

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