2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、戦国武将・明智光秀が主人公として描かれています。
光秀といえばすぐに思い浮かぶのが「本能寺の変」でしょう。この事件は主君・織田信長に対し、家臣の光秀が謀反した事件として知られていますが、動機や真相には諸説あり真実は明らかではありません。
日本史上でも有名なこの事件には、一体どのような説があるのでしょうか?
事件当時の信長と光秀の状況や、本能寺の変の経緯、真相についての諸説をご紹介します。
事件の背景:信長の勢力
信長は尾張から徐々に勢力を伸ばしていきました。
本能寺の変が起こった当時は、どのような勢力をもっていたのでしょうか?
全国支配が目前だった信長
天正10年(1582)3月11日、信長は長年の宿敵だった武田勝頼・信勝親子を自害させます。
東北地方では、伊達氏、最上氏といった大名が信長に恭順を示しており、関東でも後北条氏や佐竹氏と友好関係にあったため、東国での反信長勢力は北陸の上杉氏のみとなりました。
西国では中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏との争いが続いていましたが、それを討てば日本全国を支配下に置ける状況だったのです。
信長と朝廷の関係とは?
信長は将軍・足利義昭の追放後に従二位・右大臣に昇進しましたが、天正6年(1578)に官位を辞して以降は官職に就かないままでした。天正10年(1582)に信長を太政大臣か関白か征夷大将軍に推挙するという「三職推任」が提案されますが、信長はこの件に返答しないまま羽柴秀吉の出馬要請を受けて出陣し帰らぬ人となっています。
信長と朝廷の関係については対立説と融和説が存在しており、信長が朝廷をどのように扱おうとしていたかは謎のままです。
事件の背景:光秀の立場
事件当時、天下統一まであと一歩という状況にあった信長。
そんな信長に仕えていた光秀の立場とはどのようなものだったのでしょうか?
近畿管領ともいえる立場
この当時、織田家重臣が率いる軍は西国・四国・北陸・関東などに出払っていました。そのため織田家の政治の中心だった近畿地方に残っていた光秀は特殊な立場だったと考えられているようです。
近畿地方に政治・軍事的基盤があった光秀は、近江・丹波・山城に直属の家臣をもち、細川藤孝、筒井順慶、池田恒興らの武将を従えていました。これは師団長格になって近畿軍の司令官になったと考えられるもので、当時の光秀が近畿管領ともいえる立場だったことを示しています。
四国・長宗我部問題で面目をつぶされる
光秀は多岐に渡る仕事をしていましたが、そんな彼が担った仕事の一つに四国・長宗我部氏との取次役があります。長宗我部元親の正室は明智家重臣・斎藤利三の縁戚にあたるため、利三を通して元親と信長を結びつけたのです。
信長は当初、元親と友好的でした。しかし対立していた三好氏や毛利氏の勢力が衰えると、その背後に位置していた長宗我部氏と手を組む必要がなくなり、態度を一変させて、元親に信長を頼った四国の大名から奪った領地の返還を求めたのです。元親がこれを拒否すると、信長は四国征伐を決定します。これは取次役としての光秀の面目を潰すものでした。
本能寺の変の経緯
光秀は信長に重用されながらも面目を潰されるという複雑な状況にありました。
そしてついに、本能寺の変に向けて行動を起こすのです。
接待役を解かれ出陣した光秀
天正10年(1582)5月14日、光秀は徳川家康の接待役を命じられます。珍物を取り揃えてもてなした光秀ですが、備中高松城を包囲している秀吉軍から応援要請が届き、光秀とその与力衆が援軍の先陣を務めることになりました。
この時、光秀の手際が悪かったために接待役を解任されたという説がありますが、『信長公記』には記述がなく信ぴょう性は高くないようです。新たな接待役には丹羽長秀らが任命され、光秀は居城に戻って出陣の準備を始めました。
本能寺が完全包囲される!
その頃、信長は安土城から小姓衆のみをつれ、京での定宿だった本能寺に入っていました。上洛理由はよくわかっていませんが、6月1日には40名の公卿や僧侶を招いて茶会を開いています。
丹波にある亀山城に移った光秀は、6月1日、13000人の軍勢を率いて出陣。それからほどなくして開かれた軍議で、初めて重臣らに謀反のことを告げます。そして6月2日未明に戦闘準備を指示し、午前4時頃には明智勢が完全に本能寺を包囲しました。
当初家臣らは、信長の命令で家康を討つと思っていたといいます。「敵は本能寺にあり」という宣言は『明智軍記』による俗説で、実際は相手を知らせずに攻撃させようとしていたのです。
燃える御殿の奥で自害した信長
包囲後、明智勢は声を上げて御殿に鉄砲を撃ちました。当初は喧嘩騒ぎだと思っていた信長ですが、様子を見に行かせた森蘭丸から光秀軍だと聞くと、「是非に及ばず(しかたがない)」と一言口にしたといいます。これは光秀の性格や能力から考えて脱出不可能と悟ったからでした。
信長は小姓衆とともに応戦しましたが、女房衆に逃げるよう指示したのち、燃える御殿の奥で切腹しました。信長の嫡男・信忠も応戦後に館に火を放って自刃しています。
謀反の真相とは……
戦国時代における最後の下剋上といわれる本能寺の変ですが、光秀が信長を討った理由は明らかではありません。
真相については諸説ありますが、その中から4つの説をご紹介します。
野望説
古くからある説の一つが、天下を狙っていた光秀の野望説です。これは変の直後から語られ、『太田牛一雑記』でも語られています。光秀は本能寺の変を起こす前に京都・愛宕神社で連歌会を開催していますが、そこでの発句「時は今 雨が下しる 五月哉」は、謀反の意を示していたという見方もあります。
怨恨説
江戸から明治にかけて主流だったのが怨恨説です。これは信長から横暴な扱いを受けていた光秀が恨みを募らせて謀反を起したという説で、古典史料には遺恨を裏付ける逸話が多くみられます。ただしこれらの史料は一次史料ではないため、信ぴょう性に乏しいとも考えられているようです。
黒幕説
光秀の謀反とされる本能寺の変ですが、実は黒幕がいたという説もあります。後に天下人となった秀吉や家康と共謀していたという説や、朝廷が光秀に信長暗殺をもちかけたという朝廷黒幕説など、かなり多くの説が存在します。しかし矛盾点も多く、信ぴょう性には欠けるようです。
四国説
近年注目をあびているのが、2014年に岡山県の林原美術館と共同研究する岡山県立博物館が公表した書状を発端とする四国説です。その書状は長宗我部元親のもので、信長の命令に従うことを告げる手紙でした。
本能寺の変が起こったのは6月2日ですが、この日は丹羽長秀らが大坂から四国征伐に出陣する予定だったともいわれています。元親と関係が深かった光秀は、信長の四国征伐を回避したかったのかもしれません。
戦国最大のミステリーといわれる
本能寺の変は、信長の遺体が見つからなかったことや、光秀の動機が定かでないことから、戦国最大のミステリーともいわれています。わずか数日だけ天下人となって歴史から消えていった光秀にはほとんど史料がないため、彼の本心は永遠にわかりません。果たして真実は何なのか……、本能寺の変は今後も謎多き事件として語り継がれていくでしょう。
コメント