平安時代を代表する武士・平家と源氏。天皇家から臣籍降下した二つの武家のうち、先に勢力を手にしたのは源氏でした。そして、その立役者となったのが、八幡太郎の通称で知られる武将・源義家です。源氏一族の英雄となった義家は、のちに鎌倉幕府を開く源頼朝や、室町幕府の創始者である足利尊氏の祖先に当たりますが、その活躍はあまり知られていないかもしれません。
今回は、前九年の役・後三年の役における義家の働き、その後の活躍、残された伝承や伝説についてご紹介します。
前九年の役での働き
義家が活躍した二つの合戦のうちの一つが、前九年の役です。この戦いで義家はどのような働きをしたのでしょうか?
陸奥の有力豪族・安倍氏を破る
源頼義の長男として河内国で誕生した義家は、幼名を不動丸、または源太丸といい、7歳のときに山城国・石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と名乗るようになりました。
このころ、陸奥国の有力豪族・安倍氏が国府に税を納めず半独立的な勢力を持ったことから、朝廷は父・頼義を陸奥守に任じ追討命令を出します。義家はこの戦いに父とともに参加し、多数の犠牲者を出して大敗するといった経験をしました。安倍氏討伐は苦戦しましたが、出羽国・清原氏の応援を得てついに戦いに勝利します。
出羽守に叙任されたが…
康平6年(1063)前九年の役での功績により、義家は従五位下・出羽守に叙任されました。しかし、出羽国は先の戦いで助力を求めた清原氏の本拠地だったため、うまく治めることは難しかったようです。そのためか、この翌年には朝廷に越中守への転任を希望したことがわかっています。『扶桑略記』によれば、延久2年(1070)には下野守となっており、陸奥で盗みを働いた藤原基通を捕らえたことなどが記録されています。
後三年の役での活躍
前九年の役に続いて義家が活躍したのは、後三年の役です。この戦いで義家は、東国での源氏勢力を確立します。
清原氏の内紛に介入する
東北地方の豪族・清原氏は、奥六郡・山北などを領有し最盛期を築いていました。しかし、独裁体制をめぐって一族が対立し、清原真衡の代に家督争いが勃発。永保3 (1083) 陸奥守として入国した義家は真衡の要請でこの内紛に介入し、嫡子・真衡と対立していた異母弟・家衡と母の連れ子・清衡を打ち破ります。その後、真衡が病死したため所領は家衡と清衡で折半となり、今度はこの二人が対立。義家は清衡を助け、家衡を討って平定しました。
私財で部下に報奨を与える
後三年の役で功績をあげた義家でしたが、この合戦は朝廷からの追討命令によるものではありませんでした。そのため、『後二条師通記』には義家の私戦といった形で記載されています。義家は平定の報告とともに追討官符を後付けで要請しましたが、朝廷はこれを却下し、私戦だからと報奨も出さなかったといいます。その上、合戦中は定められた官物の貢納が滞ったことから、義家は陸奥守を罷免されてしまいました。
そんな中、義家は私財を投じて兵士たちを労ったといわれています。この行動により、義家は武家の棟梁としての信望を高めました。後に源頼朝が平家打倒を掲げて挙兵した際に東国武士たちが力を貸してくれたのも、こうした義家の行動があったからだといわれています。
勢力を増していく義家
二つの戦いで活躍し、勢力を拡大させていった義家。後三年の役以降はどのような動きがあったのでしょうか?
弟・源義綱との対立
義家には同腹の弟・義綱がいましたが、二人は不仲だったといわれています。京都・賀茂神社で元服したことから賀茂次郎と呼ばれていた義綱は、義家とともに前九年の役に参戦し、その勲功から右衛門尉に任ぜられていました。しかし、後三年の役には参戦せず、寛治5年(1091)には義家の郎党・藤原実清と義綱の郎党・藤原則清が領地をめぐって対立。義家と義綱は合戦寸前に至りますが、関白・藤原師実の仲裁により事なきを得ました。
義綱は公卿の日記に登場したり格の高い美濃守に就任したりするなど、義家より目立つ部分があったようです。
ようやく院昇殿を許される
承徳2年(1098)義家はようやく受領功過定(成績審査)を通り、正四位下に昇進して院昇殿(院御所に昇ること)を許されました。これは後三年の役から10年後のことで、合戦時に滞っていた官物を完済したことも理由だったようです。しかし、白河法皇によるこの計らいは、摂関家や家格にこだわる公卿たちの反発を招きました。
その後は、長治元年(1104)義綱とともに延暦寺の悪僧を追捕。義家の公的な活躍はこれが最後となり、息子・源義国が叔父・源義光らと対立した常陸合戦のさなかに68歳で死去しました。
残された伝承・伝説
義家にはさまざまな言い伝えが残されています。ここでは義家にまつわる伝承や伝説などをご紹介します。
八幡太郎義家「納豆伝説」
日本の食卓ではお馴染みの納豆ですが、義家が戦場で食べていた「ワラに入った煮豆」が起源だという説があります。煮豆は馬の背に載せて携行されたため、馬の体温により納豆菌が繁殖。こうして現在の納豆の原型ができあがったというわけです。義家が進軍した地域にはその製法が伝わり、現在でも納豆文化が続いているといわれています。
髭まで切れた!天下の名刀「髭切」
源氏に伝わる名刀「髭切」は義家のころに作られたといわれており、罪人を試し斬りする際に髭まで斬れたことからその名がつけられました。別名「鬼切丸(鬼切安綱)」とも呼ばれるこの日本刀は、河内源氏嫡子に伝わる宝として、名や持ち主をかえながら後世に受け継がれたそうです。現在は京都・北野天満宮に納められています。
「兜町」の由来になった?
東京証券取引所のある東京都中央区兜町は、その地にあった「兜塚」が源義家をまつる「兜神社」に姿を変えたことに由来するといわれています。兜塚については、東北から凱旋後の義家が兜を埋めて塚としたとする説や、東北遠征の際に岩に兜をかけて必勝祈願をしたとする説などがあるようです。
武家の棟梁の地位を確立した
前九年の役・後三年の役を鎮圧し、「武士之長者」といわれた義家は、武家の棟梁の地位を確立しました。また、義家の死後に家督を継承した源義忠は、清和源氏の中の河内源氏4代目棟梁となっています。のちに源氏と平家が対立して勢力図は一変しますが、義家が先導した武士階級という新興勢力は衰えることなく、やがて源頼朝による武家政治へと発展していくのです。
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