今なお高い人気を誇る戦国武将・織田信長。その知名度は日本の歴史上で一番といっても過言ではないでしょう。しかし、その息子についてはどうでしょうか?
天下人として信長の跡を継いだのは豊臣秀吉ですが、それとは別に織田家の家督を継承した人物がいます。それが信長の嫡男・織田信忠です。話題にのぼることが少ない信忠ですが、どのような人生を歩んだのでしょうか?
今回は、信忠の生まれから家督相続までの流れ、武田征伐など合戦での活躍、本能寺の変とその最期、信忠にまつわる逸話などについてご紹介します。
生まれから家督相続まで
信長に期待されていたといわれる信忠ですが、どのような幼少期を過ごしたのでしょうか。まずは家督を継承するまでの信忠について振り返ります。
信長の嫡男:奇妙丸として生まれる
信忠は、弘治3年(1557)信長の長男として尾張国で誕生しました。母は生駒吉乃(または久庵慶珠)、乳母は慈徳院といわれています。信長の正室は濃姫(帰蝶)ですが、彼女との間には子供がいなかったことから、吉乃は事実上正室のような立場だったようです。信忠は顔が奇妙だったことから奇妙丸と名付けられ、『信長公記』の記録から17~19歳ごろに元服したと考えられています。元服後は勘九郎信重と名乗り、のちに信忠と改めました。
織田家を継いで岐阜城主に
信長に従って北近江の浅井攻めに出陣した信忠は、それ以降も石山合戦、岩村城の戦い、伊勢長島攻めなどを転戦しました。そして、天正4年(1576)濃姫の養子となり織田家の家督を継承。これは信長にとって、天下人と織田家当主の立場を分けるためだったようです。
美濃東部と尾張の一部を任され岐阜城主となった信忠は、次々と出世し将軍格になることを目指します。しかし、足利義昭が征夷大将軍だったため、信忠は征狄将軍に就任することになりました。
総大将としての活躍と武田攻め
織田家当主となった信忠は、さまざまな戦いで総大将として武功をあげ、武田攻めでも活躍しました。
諸将の指揮を執っていた信忠
長篠の戦いに勝利した信忠は、続く岩村城の戦いで総大将として敵方の武将・秋山虎繁を降伏させて岩村城を開城させ、天正5年(1577)の雑賀攻めでも中野城を落として雑賀孫一らを降伏させるなど武功を上げました。また、反逆した松永久秀の討伐では明智光秀や秀吉ら諸将の指揮を執っており、この頃から信長に代わり総帥として活躍していったようです。
武田勝頼を倒し、武田家は滅亡へ
信忠は天正10年(1582)の甲州征伐でも総大将として出陣しており、徳川家康や北条氏政とともに、5万人の軍勢を率いて武田領に侵攻しています。この戦いでは武田方の拠点である信濃南部の飯田城や高遠城を攻略し、信忠自ら陣頭に立つなど奮戦しました。信忠軍の進撃の速さが予想以上だったことから、武田軍は態勢を立て直せずに撤退。城を捨てて敗走した武田勝頼は信忠の追撃により自害に追い込まれ、武田氏は滅亡します。この戦功を称えた信長が信忠軍団に旧武田領を与えたため、信忠の影響力はさらに増大しました。
本能寺の変とその最期
数々の戦いで総大将を務めて活躍した信忠ですが、早くも最期がやってきます。その散り際はどのようなものだったのでしょうか?
父・信長と宴を楽しんだあと…
本能寺の変の前夜、信長と信忠は茶会に招いた公卿や僧侶らとともに深夜まで宴を開いていました。信忠は備中高松城を包囲する秀吉の援軍に向かうために滞在していた京都・妙覚寺に戻りましたが、光秀の強襲を知ると、信長と合流すべく本能寺に向かいます。しかし、信長自害の知らせを受けたため、家臣の進言に従い堅固な二条御所に立て籠もることを決意。誠仁親王を脱出させた後、1万人以上の光秀軍を相手に、無防備ながら1時間も抗戦しました。
名誉を守り、逃げずに自害
わずかな供廻りとともに善戦した信忠でしたが、ついには御所に敵が侵入し、建物に火が放たれます。周囲には逃げるよう進言する者もいましたが、信忠は「雑兵の手にかかって死ぬのは後々までの不名誉だ」として、鎌田新介の介錯で潔く自刃しました。このとき、遺体は床下に隠すよう命じたといわれており、その首は信長同様に発見されなかったということです。
信忠にまつわる逸話
信長とともに本能寺の変で散った信忠。わずか26歳という短い人生でしたが、そんな彼にまつわるエピソードをご紹介します。
独身だが…松姫とのロマンスも?
信忠は独身のまま亡くなりましたが、11歳のころ武田家との関係強化として信玄六女・松姫と婚約していました。
ところが、武田家は織田家と同盟を組んでいた家康の領国内に侵攻し、さらには将軍・義昭の信長包囲網に呼応して西上作戦を開始。そのため、松姫との婚約は事実上解消となり、約10年後には2人は敵同士となりました。
それでも、松姫は信忠を想って何度かあった縁談を断り続けたといわれています。また、一部の史料では、信忠の子・秀信の生母は松姫だとされているようです。
英才教育を受けていた!
将来を期待されていた信忠は、雑用を一切させず信長から戦闘を学ぶという、いわば英才教育を受けていました。実は信長自身も父・信秀からこのような教育を受けていたため、信長にとってはそれが普通だったのかもしれません。信長は信忠を「見た目だけの器用者は愚か者と同じ」と評したといいますが、甲州征伐での活躍によりその武才を認めたといわれています。
天下の命運をわけた
信長の後継者として早くから活躍した信忠。最後は織田家の名誉を守り自害しましたが、もし逃げ延びていたら織田家の天下は続いていたことでしょう。信忠が天下人になっていた可能性もあることから、彼の死が天下の命運を分けたといえそうです。
信忠が自害を選択したのは最初から勝ち目がなかったためとも考えられますが、天下人の後継者として、その死はあまりにも潔すぎるものでした。
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