【徳川家定の正室:天璋院篤姫】徳川家存続と江戸無血開城に貢献した女性

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【徳川家定の正室:天璋院篤姫】徳川家存続と江戸無血開城に貢献した女性

篤姫は、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の正室として知られています。彼女は薩摩藩島津家の一門から近衛家の養女となって徳川将軍家に嫁ぎ、以降は徳川の人間として過ごしました。江戸無血開城に貢献した篤姫は、大河ドラマなどでも描かれる機会が多い女性ですが、彼女の生涯はどのようなものだったのでしょうか?
今回は、徳川家定との結婚、大奥での生活や幕末動乱期の活躍、明治維新後の様子、篤姫にまつわる逸話などについてご紹介します。

 

徳川家定との結婚

篤姫はなぜ徳川家に嫁ぐことになったのでしょうか?将軍の御台所になるまでの経緯を振り返ります。

薩摩藩・今和泉島津家にうまれる

篤姫は、天保6年(1836)今和泉島津家10代当主・島津忠剛の長女として薩摩国鹿児島(現在の鹿児島県鹿児島市)に生まれました。母は島津久丙の娘・お幸。父は薩摩藩主・島津家の一門で、篤姫は薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫にあたります。幼いころの彼女は兄とともに遊ぶなど活発な少女だったといわれ、結婚するまでのあいだは鹿児島の地で過ごしました。

島津家から徳川家へ

嘉永6年(1853)将軍・家定の正室として白羽の矢がたった篤姫は、従兄である薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、鹿児島を出て江戸藩邸に入ります。安政3年(1856)には右大臣・近衛忠煕の養女となり、藤原敬子(ふじわらすみこ)と改名。同年11月に家定の正室となり大奥に入りました。
なお、斉彬は薩摩の威信を全国に知らしめるため、篤姫の花嫁道具として諸国から特上品を調達するよう指示したといわれています。これらの婚礼道具を調達したのは、のちに活躍することになる西郷隆盛でした。

嫁入りは島津斉彬の思惑!?

篤姫の従兄である薩摩藩主・島津斉彬

篤姫の嫁入りについては、一橋派の斉彬が一橋慶喜(徳川慶喜)を次期将軍に就任させるため、大奥への根回しとして篤姫を徳川家に送り込んだという説があります。幕府では、次期将軍に慶喜を推す一橋派と、紀州慶福(徳川家茂)を推す南紀派が対立しており、斉彬は篤姫の嫁入りで発言力を高めようとしたのです。しかし、大奥からの島津家に対する縁組みの持ちかけは家定が将軍となる以前からあり、現在は「将軍継嗣問題とは無関係」とするのが定説となっているようです。
その他にも、家定の妻が次々と死んだことから、大奥が丈夫な妻を求めたという説があります。これは、徳川家斉の正室で島津家出身の御台所・広大院が子沢山だったことにあやかろうとしたものと考えられています。

大奥での生活と幕末の動乱

大奥に入った後、篤姫はどのように過ごしたのでしょうか?幕末の動乱のなかで活躍した篤姫について振り返ります。

家定、そして斉彬の逝去

徳川記念財団所蔵の、徳川家定像です。

家定に嫁いだ篤姫でしたが、夫婦生活は長くは続きませんでした。結婚からわずか1年半余の安政5年(1858)7月、家定が急死したのです。さらに同月、斉彬までもがこの世を去りました。こうして篤姫の結婚生活はわずか1年9か月ほどで終わりをつげ、仏門に入った彼女は天璋院と名乗るようになります。次期将軍については一橋派だった斉彬に従い慶喜を望みましたが、周囲の反対もあり実現できませんでした。

大奥を仕切った篤姫

家定の死後、家茂が第14代将軍に就任。しかし、10代半ばだったこともあり実権は抑制され、慶喜らが将軍後見職に就きます。この当時、日本は外国の脅威にさらされ、倒幕の気風が高まっていました。幕府は公武合体(朝廷と幕府の結束)による幕藩体制の再編強化を考え、その一環として文久2年(1862)、家茂と和宮親子内親王が結婚します。当初は武家と公家という習慣の違いもあり、大奥を仕切っていた篤姫と和宮は不仲でしたが、のちに和解し、ともに幕府を支えていくようになりました。
慶応2年(1866)家茂が第2次長州征伐の途上で亡くなると、慶喜が第15代将軍に就任し、大奥改革に着手します。このとき篤姫は、和宮とともに徹底的に反対したそうです。

徳川家存続の危機に立たされ……

慶応3年(1867)慶喜の大政奉還で武士による政治は終わりを告げましたが、翌年には旧幕府軍と新政府軍による戊辰戦争が勃発します。これにより徳川将軍家は存続の危機に陥りました。篤姫は、故郷・薩摩藩が徳川家を滅ぼそうとする状況のなか、和宮とともに立ち上がります。島津家や朝廷に対し、徳川家の救済や慶喜の助命を嘆願。江戸城総攻撃を狙う官軍の西郷にも救済嘆願の手紙を送りました。この篤姫の行動は、江戸無血開城の実現に大きな役割を果たしたといわれています。

明治維新後の篤姫

幕末期が過ぎ、明治という新しい時代を迎えた日本。明治維新後の篤姫はどのように過ごしたのでしょうか?

薩摩には戻らず、東京に住み続ける

明治維新後、江戸は「東京」に改められました。篤姫は故郷の鹿児島には戻らず、東京・千駄ヶ谷の徳川宗家邸に住み続けたといいます。徳川家の人間として振る舞い続けた彼女は、生活に困窮しても実家である島津家からの金銭援助は断っていたそうです。維新後は自由な生活を楽しみ、和宮や旧幕臣・勝海舟らとも会っていたといわれる篤姫ですが、東京から出ることはほとんどなく、明治10年に病気の和宮を見舞うために箱根を訪問したのが唯一の旅行となりました。

後進のために奔走!

『幕末・明治・大正回顧八十年史』より幼少期の徳川家達

明治維新後の篤姫は、身銭を切って元大奥関係者の縁組や仕事探しに奔走したといわれています。そのため、死後の所持金はわずか3円(現在の約6万円)ほどしかなかったようです。また、徳川宗家16代・徳川家達に英才教育を受けさせるなど、後進のためにも尽力しました。
幕末から明治にかけて波瀾万丈な人生を送った篤姫ですが、明治16年(1883)脳出血で倒れ意識不明のままこの世を去ります。葬儀には1万もの人々が集まり、遺体は上野・寛永寺の境内にある家定の墓の隣に埋葬されました。

篤姫にまつわる逸話

篤姫はどのような人物だったのでしょうか?彼女にまつわる逸話をご紹介します。

忍耐強く器の広い女性だった

篤姫は強い忍耐力と広い心の持ち主で、人と接するのが上手かったといわれています。斉彬はそんな彼女を「御台所にふさわしい人物だ」と評価していたそうです。幕末の混乱のなかで徳川家の人間として凛として振る舞ったことを考えれば、斉彬の見立ては正しかったといえるかもしれません。

猫のエサ代は年間250万円!?

篤姫は愛犬家で、結婚前は多くの犬を飼っていました。ところが、夫の家定は犬嫌いだったため、大奥入りしたあとは猫を飼っていたようです。その餌代は年間約250万円で、3人も世話係がついていたとか。専用食器も用意されており、篤姫と一緒に御前で食事をとっていたというエピソードも残されています。

日本で初めてミシンを使った人物

今ではお馴染みの縫合機械・ミシン。日本に上陸したのはペリーが2度目に来航した嘉永7年(1854)のことで、将軍家に贈ったのが最初といわれています。その後の万延元年(1860)には、ジョン万次郎がアメリカ土産として持ち帰りました。日本でミシンが普及しはじめたのは明治からで、国内で量産できるようになったのは大正になってからです。当時はまだまだ珍しかったミシンですが、日本で初めて使ったのは篤姫だといわれています。

徳川将軍家の人間として生きた

今和泉島津家から徳川将軍家に嫁いだ篤姫。彼女は徳川家存続のために奔走し、徳川宗家16代・徳川家達を養育するなど、最後まで徳川家の人間として生きました。江戸無血開城の影の立役者といわれる彼女は、幕末を語るのに欠かせない人物の1人といえるでしょう。NHK大河ドラマ『青天を衝け』では、上白石萌音さんがどんな篤姫を演じてくれるのか楽しみですね。

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