戦乱を鎮め太平の世を実現した徳川幕府。その3代目将軍となったのが、徳川家康の孫にあたる徳川家光です。歴代将軍のなかで唯一御台所が産んだ将軍であり、まさに正統な徳川将軍だった家光は、後世に影響を与える幕政改革をいくつか行いました。彼の一生とはどのようなものだったのでしょうか?
今回は、家光の生まれから将軍になるまで、幕政改革とその影響、家光の最期と彼にまつわるエピソードなどについてご紹介します。
うまれから将軍になるまで
徳川家に生まれた家光ですが、将軍になるまでにはどのような出来事があったのでしょうか?
徳川秀忠の嫡男として誕生
家光は、慶長9年(1604)2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城でうまれました。母は浅井長政の三女・江で、彼女は織田信長の姪にあたります。また、乳母は斎藤利三の娘・福(後の春日局)が務めました。
父・秀忠には数年前に生まれた長男・長丸がいましたが、既に亡くなっていたため、家光が跡継ぎとして扱われました。幼名は祖父・家康と同じ「竹千代」で、幼いころの家光は病弱で言葉に不自由があったといわれています。
弟・国松(忠長)と継承争いした?
2年後の慶長11年(1606)、秀忠に三男・国松(後の忠長)が誕生しました。『武野燭談』によれば、秀忠は家光より容姿や才気に優れた国松を寵愛し、2人の間で次期将軍の座をめぐる争いが起きたといいます。そのため、家光廃嫡の危機を感じた乳母・福は、駿府の家康に直訴しました。これにより家光が後継になることが確定したといわれています。
竹千代から将軍・家光へ
家康死後の元和6年(1620)、元服して竹千代から家光へと名を改めます。「家」の字は家康からとったもので、以降、徳川将軍家の嫡男の名前には「家」が使用されるようになりました。
元和9年(1623)3月、家光は将軍家の跡継ぎとして朝廷から右近衛大将に任命されます。6月に父・秀忠とともに上洛し、7月には伏見城で将軍宣下を受けました。その後、父・秀忠は江戸城西の丸で隠居し、家光は本丸へと移ります。またこの年、家光は摂家・鷹司家の鷹司孝子(たかつかさたかこ)と結婚しました。
二元政治から親政へ
江戸幕府の将軍に就任した家光は、幕政改革に着手します。ここで決定された制度は後世にも影響を与えました。
家光の幕政改革
家光の将軍就任後、父・秀忠は大御所として政治的実権を握り続けました。そのため、幕政は家光側の本丸年寄と、秀忠側の西の丸年寄の合議による二元政治となります。これが解消されたのは秀忠が死去した寛永9年(1632)1月のこと。ようやく実権を集約した家光は、親政を開始し幕政改革に着手しました。家光は旗本中心の直轄軍を再編。また、老中・若年寄・奉行・大目付などの役職を定めて、将軍を最高権力者とする幕府機構を確立します。寛永12年(1635)には、幕府が諸大名をまとめるために制定した武家諸法度を改訂し、大名らに参勤交代を義務づけました。
対外貿易の管理と統制
対外政策としては、長崎貿易での利益独占・キリスト教禁止令の強化・国際紛争の回避を目的に、貿易の管理や統制を進めました。家光は、東南アジア方面との貿易を管理する目的で長崎奉行に職務規定(鎖国令)を発布。寛永12年(1635)には日本人が海外に行くことも帰国することも禁じます。こうして宣教師の密航手段となっていた朱印船貿易は終わりを告げ、九州各地のポルトガル人は長崎の出島に隔離されました。
島原の乱が勃発!
家光が幕政改革を進めるなか、寛永14年(1637)に島原の乱が勃発します。島原半島と天草諸島の領民は以前から藩の圧政や重税に苦しんでいましたが、そこに家光によるキリシタン弾圧への不満が重なりついに蜂起。これは日本の歴史上最大の一揆といわれ、幕末以前では最後の本格的な戦いとなりました。家光はこの乱を鎮圧し、ポルトガルとの断交を決意。さらには、長崎奉行や九州地方の大名らに対してポルトガル人の追放を命令します。寛永18年(1641)には貿易拠点であるオランダ商館を長崎の出島に移転し、貿易の管理・統制として鎖国体制を固めました。
寛永の大飢饉が発生
寛永19年(1642)からは寛永の大飢饉が発生し、国内の大名や百姓たちが大打撃を受けます。幕府の基盤を固めてきた家光は、この災厄により体制の立て直しを迫られました。家光は諸藩に対し、米作離れ防止のために煙草・酒造・饅頭・南蛮菓子・そばきりなどの製造販売を禁止するなど具体策を指示。また、農民の没落を防ぐために田畑の売買(永代売)を禁止する田畑永代売買禁止令も発布しました。
この大飢饉の原因は大規模な異常気象のほか、武士の困窮、武断政治のための多額の出費など、さまざまな要因があったと考えられています。
家光の最期とその後の幕府
さまざまな障害が起こるなか親政を進めていった家光。その最期はどのようなものだったのでしょうか?
江戸城内で急死する
慶安4年(1651)家光は献上品の茶碗を見ていた際に突然震え出し、倒れて意識が戻らないまま翌日に死去しました。歩行障害があったことから、死因は脳卒中だったと考えられています。前年にはすでに病気になっており、儀礼などは嫡男・徳川家綱が代行していたようです。遺体は日光・輪王寺に葬られ、のちに廟所・大猷院(たいゆういん)が造られました。
武断政治から文治政治へ
家光死後、家綱が第4代将軍に就任しますが、わずか11歳だったことも作用し討幕未遂事件(慶安の変)が起こります。家綱は叔父・保科正之や家光時代からの大老・名臣らの補佐により政情不安を乗り越え、以後約30年間の安定政権を築きました。幕藩体制はさらに整備され、家光時代までの武断政治は終焉を迎えます。そして新たに文治政治の時代が始まったのでした。
家光にまつわるエピソード
家光はどのような人物だったのでしょうか?彼にまつわるエピソードをご紹介します。
祖父・家康を崇拝した「二世権現」
家光はたびたび夢で祖父・家康の姿を見ており、その肖像を絵師・狩野探幽に描かせていました。その絵は「霊夢像」といわれ、現在に伝わっています。また、身につけていたお守りに「二世権現、二世将軍」「生きるも死ぬるも何事もみな大権現様次第に」という内容が書かれた紙を入れていたそうです。権現とは家康の敬称であるため、家光は家康を尊崇していたことがうかがえます。
異母弟・保科正之を重用した
家光は父・秀忠の落とし子である異母弟・正之を可愛がり、別格扱いしていました。正之は出羽国山形藩20万石を拝領したのち、陸奥国会津藩23万石の大名に引き立てられています。家光の死後は、遺言通りに家綱を補佐して幕政改革を主導。家光の引き立てにより活躍の場を得た正之は名君といわれるほどになり、彼を藩祖とした会津藩は幕末にいたるまで幕府を守り続けました。
ヘタウマ絵の描き手だった!?
墨絵をたしなんでいた家光は、自作の絵を家臣に与えることがありました。主に描いていたのは鶺鴒(せきれい)や兎といった動物で、十数点ほど確認されています。決してうまくはないものの素朴で愛嬌があり、現在では「ヘタウマ」として注目されているようです。
江戸時代初期の幕府機構を確立した
3代将軍・家光の親政により、参勤交代や幕府の諸役職など、後世まで続く重要な制度が定まりました。このように功績を残した家光ですが、家康や秀忠と違って重臣たちが重要事項をすべて決定していたという指摘もあり、一部では厳しい評価もあるようです。次代の家綱からは文治政治がスタートしたことから、家光の治世は江戸時代最後の武断政治となりました。
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