【鎌倉にある源頼朝の墓は、本物なのか】墓の再建に、島津家が関わっていた?

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源平合戦から鎌倉幕府の成り立ちを描く、2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。この物語の主人公は北条義時だが、前半の実質的な主役は、やはり源頼朝とみる人も多いだろう。頼朝および、彼を取り巻く人々が、いかに鎌倉幕府をつくりあげたのか。とくに前半はそこが見どころとなろう。

さて、そんな源頼朝だが、彼が謎だらけの人物であることはご存じの方も多いだろう。長く「源頼朝」と信じられてきた神護寺(京都)の肖像画が、最近は別人(足利直義)という説も定着した。また、その死因も謎だ。頼朝は征夷大将軍になって6年後の建久9年(1199)12月、53歳で突然に世を去った。幕府の公式記録『吾妻鏡』は、頼朝の晩年(1196年~1199年初頭)部分が、不自然なまでに欠落していて読むことができない。後年になって「還路に及び、御落馬有りて(死んだ)」と、付け足されているだけだ。

鎌倉で死んだと思われる頼朝。その頼朝の墓が、鎌倉にあることは別段不思議ではないが、この墓も、いささかの「謎」を含んでいる。関東の人々にとっては、社会科見学や修学旅行のコースになっているほど有名な「頼朝の墓」だが、今回はこの墓についてのいわれを、現地の写真とともに説明したい。

神奈川県鎌倉市。現在はコロナ禍で、以前に比べると人の数も少なくなっているが、それでも相当な数の人が参拝に訪れる観光名所だ。その中心であり、鎌倉の象徴が鶴岡八幡宮。河内源氏の源頼義が、京都の石清水八幡宮を鎌倉の由比ガ浜に勧請した「鶴岡若宮」を起源とし、頼朝が治承4年(1180)に現在地へ移したことに始まる。

さて、その八幡宮の東側が、当時の大蔵幕府。つまり鎌倉幕府の政庁があったところだ。現在は閑静な住宅地となり、政庁の中心だった場所には清泉小学校があり、そのころの面影はまったくない。その小学校の北側の山あたりに、白旗神社がある。源氏の旗印「白旗」の名がついた神社は、むかし、このあたりに頼朝の持仏堂(法華堂)があったところだそうだ。神社の脇にある、細い階段を上がったところに、源頼朝の墓がひっそりとある。

「これが、鎌倉幕府の初代将軍の墓?」

初めて見る人の多くは、そんな感想を抱くかもしれない。それほどまでに質素かつ、飾り気のない墓だからだ。よく比較されるのが、徳川家康の墓がある日光東照宮だろう。それと較べれば、たしかに地味であり質素である。

じつは、この墓は本来のものではない。現在の墓は安永8年(1779)、薩摩藩主の島津重豪(しげひで)が再建したもの。江戸時代の鎌倉はすっかり寂れ、頼朝の墓も荒れ放題となっていたのを重豪が修繕・整備したというのだ。

島津氏の祖先・島津忠久は、もともと頼朝の隠し子だったといわれる。その子孫が地頭職として薩摩へ派遣され、守護大名として根付いたとされる経緯がある。このことから、島津氏は源氏の末えいたる武士を名乗り、頼朝の子孫でもあると称していた。そうした関係で、現在も毎年おこなわれる「頼朝公墓前祭」には、島津家の当主が参列する習わしとなっている。

島津重豪(近世日本国民史・国立国会図書館蔵)

「墓はもと三尺許(ばかり)の苔蒸せる五輪の一小塔に過ぎざりしを、安永八年、其の付近に存せる島津忠久の墓と称せるものと共に、島津重豪に依りて稍々大なる今の墓に改められしなり。」

江戸後期の医者・小川顕道が、随筆『塵塚談』で、こう書いている。では、いま「頼朝の墓」として知られる、この墓の下には本当に頼朝が眠っているのだろうか。というのは、権力者の墓は、実際に埋葬された場所とは異なるところに「供養碑」を建てる例も多いからだ。それを紐解くカギが、やはり江戸時代の書物にある。

新編鎌倉志(国立国会図書館蔵)

それは貞享2年(1685年)に刊行された『新編鎌倉志』という地誌(いわゆるガイドブック)だ。ここに「頼朝屋敷」、つまり鎌倉幕府の政庁だった場所の絵図があり、その北側に「法華堂」があって、石段をのぼったところに「頼朝墓」が、今の墓の姿とは違う姿で描き込まれている。

このガイドブックの成立は、島津重豪による整備より100年ほど前。よって、それ以前から「頼朝の墓」は、この場所にあったことになろう。ただ、ひとつ気になるのが、この絵図では、法華堂から、やや斜めに向けて石段が延びているように描かれている点だ。あくまで絵図なので、デフォルメが入っているのかもしれないが、実際ここには今でも先の頼朝墓につながる石段のほか、斜め(北東方面)にも登る石段がある。

北条義時の法華堂(墓)跡。石碑に「源頼朝墓」との文字もあり、曖昧に濁されている

そして、その先にあるのは、なんと北条義時の墓である法華堂(墳墓堂)の跡なのだ。鎌倉幕府2代執権、大河ドラマ主役の義時である。『吾妻鏡』には「頼朝の法華堂の東の山上を墳墓の地となす」とあり、義時がそこに葬られたと記される。ただし、墓石は最初から無かったのか、すでに失われたのか、頼朝墓のような碑はない。また、この山には義時のほかにも鎌倉幕府の関係者が何人も眠る。この義時の墓の上には、まず三浦一族の墓(やぐら)。ここには宝治合戦で北条時頼(5代執権)に敗れ、自害した三浦泰村の一族が眠る。

さらに、その上には大江広元、毛利季光、島津忠久の三つの墓(やぐら)がある。島津忠久は先述したとおり、源頼朝の墓とともに島津重豪が整備したものだ。大江広元と毛利季光は毛利家(長州藩)の祖先で、島津家と同様、これも毛利氏が江戸時代後期に祖先を顕彰するため、頼朝墓のそばに墓を設けたものである。薩摩・長州、いわゆる薩長の祖先の墓が、頼朝の墓よりも高い場所に、しかも立派に見えるような形で造られていることは、明治維新による武家社会の終焉を物語っているように思える。

先の『新編鎌倉志』の絵図の話に戻るが、これに描かれた「頼朝墓」は、現在の大江広元らの墓の位置を示すかのように見える。つまり、絵図が描かれた当時はここが頼朝の墓とみられ、それにふさわしい石塔が建っていたということだろうか。今となってはわからない。仮に今後、発掘調査が行なわれたとしても、誰の墓であるかを証明することは難しいのではないだろうか。いずれにしても源頼朝は、彼が政務を執った、この「大倉幕府跡」のそばに眠っていると信じたい。

源頼朝墓(伝)を中心とした、鎌倉幕府の史跡

(文・上永哲矢/歴史随筆家)

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