![【比企能員】源頼朝に尽くした有力御家人の生涯と「比企の乱」の謎](https://rekijin.com/wp-content/uploads/2021/06/hikiyoshikazu00.jpg)
比企能員(ひきよしかず)は、鎌倉時代に起こった「比企の乱(比企能員の変)」で知られる人物です。鎌倉幕府の御家人だった彼は、源頼朝や源頼家に仕えて権勢を振るうも、一族滅亡という悲しい最後を迎えました。その死の裏には、陰謀があったともいわれています。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では佐藤二朗さんが演じる能員ですが、果たして彼の人生はどのようなものだったのでしょうか?
今回は、能員が権勢を強めるまで、比企の乱の経緯とその後、比企の乱をめぐる謎などについてご紹介します。
権勢を強めるまで
有力御家人として権勢を強めた能員ですが、彼が台頭した背景には比企尼(ひきのあま)の存在がありました。
源頼朝の乳母・比企尼
比企尼は、藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族で武蔵国比企郡の代官・比企掃部允(ひきかもんのじょう)の妻でした。夫婦は若くして京に上り、源為義・義朝に仕え、嫡男・源頼朝がうまれると比企尼が乳母となります。平治元年(1159)平治の乱で源義朝が敗死すると、頼朝は罪人として伊豆国に流されました。このとき比企尼は夫とともに京から領地へと下り、そこから20年ものあいだ頼朝に仕送りを続けます。
比企尼の猶子となった能員
比企尼には3人の娘がいましたが、男児には恵まれませんでした。そのため、夫の死後は甥の能員を猶子に迎え家督を継がせます。こうして比企尼の養子になった能員は、比企尼の推挙により頼朝の側近として仕え、稀に見る厚遇を受けるようになりました。また頼朝の妻・北条政子が嫡男・頼家を産むと、これまでの比企尼の貢献が考慮され、能員は頼朝の信任を受けて乳母父に選ばれます。
娘の一幡出産により権勢をふるう
能員はその後も頼朝の側近として仕え、頼朝のさまざまな戦いにも従軍しました。建久元年(1190)には頼朝の上洛にともない、随兵7人のうちに選ばれます。また、これまでの勲功として頼朝に御家人10人の成功(じょうこう=売官制度の一種)推挙が与えられた際は、そのうちの1人に入り右衛門尉に任ぜられました。そして建久9年(1198)、娘の若狭局が頼家の側室となり長男・一幡を出産すると、能員は外戚として権勢を振るうようになります。
比企能員による反乱
頼朝の信任のもと台頭した能員ですが、その後は比企の乱が起こります。これは比企一族の運命を決めるものでした。
十三人の合議制の1人になる
正治元年(1199)頼朝が死去し、18歳の頼家が跡を継いで第2代将軍となります。しかし、3ヶ月後には有力御家人による十三人の合議制がしかれ、能員もその1人となりました。梶原景時の変により頼朝時代からの将軍側近・梶原景時と一族が失脚すると、もはや頼家を支える存在は能員のみとなり、能員はますます外戚としての権勢を強めていきます。一方、すでに盤石な地位を築いていた比企氏にくらべ、北条氏は代替わりとともに将軍外戚の地位から一御家人の立場に転落していました。そのため、政子と父・北条時政は、比企氏の台頭に危機感を抱きます。
北条時政の追討を命じるも……
建仁3年(1203)8月、急病となった頼家が危篤と判断されたことから、政子と時政は遺領分与の措置をとりました。これは、頼家の弟・源実朝に関西38ヶ国の地頭職を、嫡男・一幡に関東28ヶ国の地頭職・諸国惣守護職を継承させるという内容でした。能員はこの分割相続を不服とし、実朝擁立を企てる時政の謀反を訴えます。これにより頼家は、時政追討を能員に命令。しかし、この密議を政子が障子越しに立ち聞きしていました。政子は事の次第を時政に告げ、時政は仏事の相談があるとして能員を自宅に呼び出します。これに応じた能員は、屋敷に入ったところで刺殺されました。
比企一族、滅亡する
能員が謀殺されたことを知った比企一族は、一幡の屋敷に立てこもって防戦します。しかし、大軍に攻められ、最後には屋敷に火を放って一幡とともに自害。能員の嫡男・余一兵衛尉もさらし首となり、残る親族たちもことごとく殺害されました。その後、病状が回復した頼家は、一幡と比企一族の滅亡を知って激高します。時政を討つよう指示する密書を使者・堀親家を通じて仁田忠常と和田義盛に送りましたが、密書は義盛によって時政に渡り、親家は殺害されました。
その後の鎌倉幕府は?
その後、頼家は政子の命令で出家扱いとなり、後継者となった実朝は時政の邸宅に移りました。ただし、時政の継室・牧の方が悪事を企んでいたことから、のちに政子が実朝を引き取っています。そして建仁3年(1203)9月、頼家に代わって実朝が征夷大将軍に就任。頼家は鎌倉を追放され伊豆・修禅寺で謹慎しましたが、翌年、入浴中に襲撃され死去しました。
「比企の乱」をめぐる謎
比企能員の反乱は北条氏の謀略ともいわれており、史料によって内容が異なります。ここではその謎についてご紹介します。
能員と頼家の密議はなかった!?
比企の乱の発端となったのは能員と頼家の密議でした。しかし、この密議自体、のちの北条氏によるねつ造だとする説があります。これは、事件の背景に専制体制をとる将軍の近臣勢力と東国有力御家人の対立があったとするもので、当時それほど大きな力がなかった北条氏が、御家人たちの了解のもとに比企の乱を起こしたものと考えられています。
はじめから殺害は予定されていた?
通説の比企の乱は『吾妻鏡』をもとにしていますが、当時の貴族の日記などによれば、事件の経過は異なっています。藤原定家の日記『明月記』には、建仁3年(1203)9月7日に鎌倉からの使者が到着し、頼家が同月1日に死去したため、朝廷に実朝の将軍就任を要請したとの記述があります。近衛家実の『猪隈関白記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などにも同様の記述が見られますが、使者が京都に到着した9月7日は頼家が出家させられた当日でした。つまり、鎌倉方はまだ頼家が存命中にもかかわらず病死したとして、実朝を征夷大将軍にしようとしたのです。鎌倉を出発した使者が京都に到着するまでの日数を考慮すると、頼家や能員の殺害は既に決定していたとも考えられます。『吾妻鏡』は北条氏による後年の編さん書のため、歴史学者からは比企の乱自体がねつ造と見られているようです。
『愚管抄』では堂々と殺害!
慈円の『愚管抄』ではまた違う内容になっています。頼家は大江広元の屋敷に滞在しているあいだに病が重くなったため自ら出家し、あとをすべて一幡に譲ろうとしました。このままでは一幡を擁する能員の全盛時代になってしまうと恐れた時政は、能員を呼び出して殺害。さらには一幡の命も狙って軍勢を差し向けました。一幡は母が抱いてなんとか逃げ延びましたが、数ヶ月後には捕らえられ、北条義時の手勢により刺殺されています。頼家のその後など基本的な流れは同じですが、ほかの史料と違い、北条氏が秘密裏に陰謀を働いたという印象はありません。
頼朝・頼家を支えた古参の有力御家人
比企尼の子となり、将軍の外戚として権勢をふるった能員。しかし、その立場は長くは続きませんでした。能員の死後、北条氏は鎌倉幕府の執権として猛威をふるいます。その執権体制を築くには、頼朝時代から尽くした御家人は目障りだったともいえるでしょう。比企の乱そのものがねつ造の可能性もありますが、能員は北条氏から狙われる運命にあったかもしれません。
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