突然ですが、歴史の時代でいえば一番人気はやはり「戦国」でしょうかね。
人物もしかり、甲冑もしかり、おそらく現代風にデフォルメしやすいのが人気なのかもしれません。
次いではやはり「幕末」が二番手、鎌倉、平安、奈良がその次、でしょうかね。
とはいえ、たまには別の時代も知りたいなと、今日は平安時代にその名を轟かせた平家の猛将、藤原景清について調べてみました。
この景清、武術に長けた戦略家であり、敵の兜の錣(しころ=兜に付いた頸部を守るもので皮と鉄板でできている)を手で引きちぎったという武勇伝も伝えられているほどの豪傑です。
数々の合戦で侍大将を務めてきましたが、時代の流れは平家劣勢となり、有名な壇ノ浦の戦いへ。
景清は、平家滅亡へと運命が決した壇ノ浦の戦いを生き延びて、落人となり、何としても主君の敵・源頼朝を討ち果たすべく、数年間にわたって潜伏を続けながら、数十回も頼朝暗殺を企てたそうです(怖すぎ・・)
やがて、頼朝暗殺に失敗した景清は源氏に捕らえられるのですが、あまりの勇猛果敢さから、敵方からも尊敬を集めて、処刑されることなく、幽閉状態ながら普通の生活を許されることになります。
このあたりも興味深いですよね。他の国でも騎士道などヨーロッパではありますし。
しかし、敵の情けに甘んじて生きることが耐えがたかった景清は、その反動から傍若無人に振る舞い、横暴の限りを尽くすが、それでも咎められることなく、かつての敵から最大限のもてなしを受け続けたため、ついに景清は、洞(ほら)に籠もって世捨て人となり、届けられる食事を拒み続けて、やがて餓死したと伝えられているそうです。
「武士はくわねど高楊枝」をどこまでも貫いた末に餓死してしまうとは・・・・その気概には驚くほかありませんが、勇猛果敢を絵に描いたような武将だった景清は、後の世にも人気が高く、能や歌舞伎、浄瑠璃、落語など景清を主人公にした作品が数多く作られています。
中でも上方落語の「景清」では、「源氏の世は見たくない」といって自分の目玉をえぐり取ったなどという壮絶なエピソードがあるのですが、宮崎市にその伝承に由来し、景清を祭神とする生目(いきめ)神社と、生目という地名もあるんだそうです。
また、歌舞伎「景清」では、源氏に捕らえられた景清が、秘密を白状しないために目の前で妻子を殺すと脅され、激怒した景清が手錠や鎖を引きちぎって大暴れする場面は、大人気の見せ場だったそう。
乱世を全力で生きた平安最後の豪傑・藤原景清。
後世の人々を惹きつけてやまない、強烈な個性と不屈の精神を持った人物であったことは間違いありません。
特に戦国時代までの日本人って性格も何も、今とは違うでしょうから、こういう豪傑がいても不思議ではありませんよね。
副編集長Y
参照元:
藤原景清 – Wikipedia
平家物語 – Wikipedia
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