豊臣秀吉の朝鮮出兵は、文禄・慶長の役と呼ばれます。
異国の地で戦い続ける大名たちの間には、いつしか軋轢も生まれていきました。中でも、加藤清正と石田三成の関係は特に悪化していきます。
さて、どのような経緯が彼らの亀裂を生んだのでしょうか。
文禄・慶長の役とは
天下統一の後、秀吉は明の支配を狙いましたが、手始めに李氏朝鮮をものにすることを考えました。
基地として肥前に名護屋城を築城すると、大名たちを海の向こうへ派遣したのです。
文禄元年(1592年)から翌年にかけての戦いが文禄の役です。
一番隊の小西行長らが釜山に上陸し、二番隊の加藤清正、三番隊の黒田長政など八番隊までが続きました。漢城府(ソウル)を陥落させるなど進撃し、清正は満州の地にまで入ります。
しかし明の参戦により苦戦するようになると、講和のために休戦します。ところが、日明双方の講和担当者が虚偽の報告をし、条件に食い違いが生じて交渉そのものが決裂してしまいました。これにより、慶長2(1597)年に慶長の役が起こります。
日本軍は文禄の役の際に築城中だった城を完成させようとします。その蔚山城で戦いが起こり、わずかな手勢のみの清正が朝鮮・明連合軍に包囲されてしまいました。死を覚悟した彼らですが、援軍が間に合いなんとか危機を脱し、勝利することができました。
その後日本軍は戦いを優位に進めるも、戦役の最中に秀吉が病没してしまいます。
このため、すみやかに明と和議を結んで撤退し、戦役は終わりを告げました。
三成と清正の亀裂
文禄の役で、清正は他の隊の進軍に不満を持っていましたが、戦況が不利となったために渋々漢城まで撤退します。
一方、清正と共に主力だった小西行長は、どうにか講和に漕ぎつけようと考えていました。そのため、清正はちょっと面倒な存在だったのです。
そして、清正が勝手に豊臣姓を名乗ったこと、国境を越えて満州まで独断専行したため軍評定に参加できなかったことを挙げて秀吉に訴えたのです。
総奉行として秀吉と現地の連絡役を務めていた石田三成は、戦を早く終わらせるために小西に同調しました。ただ結果的には清正を訴える片棒を担ぐことになってしまいます。
秀吉の怒りに触れた清正は京に戻され、謹慎させられました。増田長盛が三成との仲介を申し出たものの、断っています。
そして慶長の役、蔚山城の戦いでの大苦戦がありました。この後、宇喜多秀家ら大名13人が秀吉に戦線の縮小を申し出ましたが、逆に秀吉を怒らせてしまいます。彼らは譴責処分や一部の所領を没収されるなどし、この中にも清正は含まれていたようです。
この戦いの軍目付、福原長堯らが彼らの規律違反を報告していたのですが、彼は三成の親戚に当たりました。このため、処分を受けた清正らは、三成と福原が秀吉に自分たちのことを悪く吹き込んだと考えたのです。
こうしたことが、後の三成襲撃事件、ひいては関ヶ原の戦いの遠因になっていったと考えられるのではないでしょうか。
ここにも不仲が!加藤清正と小西行長
小西行長と加藤清正は、日本での領地が隣同士で、元々争っていたと言われています。
また、日蓮宗の清正とキリシタンの小西ということで、その点も合わなかったのではと推測されているんですね。
文禄の役では2人が一番乗りを争い、結果的に小西が出し抜いたそうです。また、小西は清正の動向を朝鮮側に密かに流し、彼を討ち取るように働きかけたとも言われています。
真実かどうかは不明ですが、2人もまたこの戦で関係を悪化させてしまったのです。
清正はこの戦役で大活躍したために、彼に関する話が多く残っているのでしょうが、いつの時代も同僚との仲って難しいんですね・・・。
(xiao)
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