ここのところ、真田信繁や島左近の書状が見つかり、歴史ファンの間で話題になっています。
今はメールやLINEがあるので、手紙などあまり書かないかもしれませんね。
しかし、昔の連絡手段は手紙だけでした。だからこそ、そこに本音が表れていたりするので実は面白いのです。
今回は、そんな特徴ある偉人の手紙をご紹介しましょう。
政宗にやきもき、前田利家の書状
伊達政宗は以前から前田利家と書状を交わしていたようです。
父・輝宗が織田信長などに手紙を出していたように、彼もまた有力大名と接点を持とうとしていたのですね。
1589年、政宗は会津の蘆名義広と戦って勝利し、追放しました。が、これが大名間の私闘を禁じる「惣無事令」に反するとして秀吉の怒りを買ってしまいます。
そのため、秀吉の側近である利家や浅野長政などは、政宗に事情説明に来た方がいいと何度も手紙を出しました。
その際の利家の書状が「前田利家書状」として残っています。これは1589年12月5日付のものです。
内容は、政宗に対し「秀吉にとりなしているから、早く小田原に来るように」と促すものですが、他に馬一頭をもらったお礼なども書いてあります。
利家は、翌年の2月2日にも政宗に参陣を催促する手紙を出しました。しかし政宗が居城を出たのは5月9日で、小田原に着いたのは6月5日のことでした。
半年以上催促し続けた利家や浅野長政は、「伊達は何をやっておるのだ!」と焦ったでしょうね。
政宗は白装束で参上しましたが、このパフォーマンスの裏には、利家らのとりなしがあったというわけです。
現代ならメール魔?伊達政宗
伊達政宗は筆まめなことで知られており、現存するものも多いです。
彼の手紙にはある特徴があり、それは、文末に「読んだら燃やしてくれ」という言葉を添えたことでした。
燃やしてくれという理由は「機密事項だから」や「恥ずかしいから」だそうですよ。
ただ、受け取った家臣は燃やさずに保管していたというわけですね。
その「燃やしてくれ」という手紙ですが、片倉小十郎宛の中で「近習の者と腕相撲をしたせいか、手が震えてしまいやっと手紙を書いている。恥ずかしいので読んだら燃やすように」と書いています。
政宗は気の向くままに手紙を書いたようで、「花押を書き間違えたがそのまま送る」と書いたり、「余白がなくて花押が小さいがこれは政宗の手紙だ」などと書き送ったりしています。
それって書く必要ある?と聞きたくなるような手紙が多い政宗ですが、そんなマイペースさは主らしくていいのかなとも思います。
発見!真田信繁の「信繁」署名
2016年6月、清泉女学院大客員教授の玉城司氏により、真田信繁が「信繁」と署名した書状の原本が発見されました。
1590年8月10日付で安中平三という人物宛てです。内容は、安中平三に安中の姓と領地を与えることを約束したものだそうです。
1590年といえば信繁はまだ20代前半、きわめて早い時期の書状です。そして「信繁」と署名されているものは現在見つかっているもので唯一なのだそうですよ。
ちなみに、信繁が出した書状で現存するもののうち、伝来するものが20、原本があるのが7ということで、今回見つかった書状は本当に貴重なものだということがわかりますね。
これから研究がさらに進められていくそうですが、その原本真田信繁(幸村)書状がなんと7月6日(水)~8月29日(月)まで真田宝物館(長野市松代町)で期間限定展示中!
これはぜひ見に行きたいですね!
手紙の内容を知ると、その人の見方が変わりますし、その背景でどんなことが起こっていたのかを考えるとより面白く読めますね。ラブレターなんていうのも探してみると面白そうです。
機会があれば、ぜひ現存している書状も見てみてはいかがでしょうか。
(xiao)
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