慶長5年(1600)9月15日、日本中から集まった軍勢が激突し、運命の歯車を動かした「関ヶ原の戦い」。まさに天下分け目の決戦でしたが、大方の予想に反してわずか半日で決着がついたことでも知られています。その合戦を、今回はちょっとしたデータの形でご紹介しましょう。近年は研究が進み、いろいろと新解釈が明らかになってもいますが、基本的に通説に沿います。
まずは、見た目で分かりやすい布陣図から、合戦の経過を追います。
開戦前の陣形は上図の通り、鶴翼の陣をとった西軍(青)が東軍を包囲した形なので、西軍が圧倒的有利だったといわれています。ドイツの軍事家クレメンス・メッケルがこの布陣を見て「西軍の勝ち」と言ったなんて話もあります。あくまで司馬遼太郎さんが紹介した逸話なので、事実かどうかはわかりませんけどね。しかし、現実は絵に描いたようには行かないもの。いざ合戦が始まってみると・・・。
袋のネズミになったのは西軍だった!
「なぜ、こうなった?!」という石田三成の嘆きが聞こえてきそうな、なんとも理不尽な格好になりました。
南西の松尾山にいた小早川秀秋ほか、複数の軍勢が東軍に寝返って、西軍の側面を突いたのです。通説では正午といわれていますが、一次史料などによれば寝返りは開戦と同時、あるいは西軍の拠点だった松尾山を陣取った時点で、東軍への参加を表明していたともいわれています。
さらに、東の南宮山にいた吉川広家、毛利秀元の軍勢は傍観に徹し、最後まで戦闘に参加しなかったので、色を変えました。兵力こそ少ないですが、島津義弘隊も積極的に戦わなかったといわれています。こうやって色分けすると、西軍はいわゆる「詰んだ」状態だったことが分かるでしょう。
開戦前から東軍が2万人も多かった!
次に、両軍の兵力を見てみましょう。
開戦前の時点で東軍は10万に近く、西軍を数で圧倒しています。野外戦は兵力の多いほうが圧倒的有利なのは間違いありません。従来、開戦当初の両軍の兵力はほぼ互角か、「西軍のほうが多かった」と紹介されることがあります。しかし、それは大きな間違い。なぜなら東軍の後方、南宮山の守備隊2万(浅野幸長・山内一豊など)を計算に入れていないためです。南宮山の守備隊を数に入れないのなら、西軍の南宮山部隊3万(吉川・毛利)も計算に入れてはいけないことになります。よって、純粋に計算すれば東軍は始めから数が多く、勝利を確実にしていたといえます。
ちなみに、関ヶ原の兵力数はかなりアバウトなものですから、参考程度に見てください。各大名が実際にどれだけの兵を連れていたのかは確証が得られていないのです。通説の史料『日本戦史 関原役』は、諸大名の「石高」をもとに動員数を算出しているだけで、国許での留守番の数や非戦闘員の数などは、あまり考慮されていません。その石高を合計した場合でも482万対273万と、東軍は西軍の1.8倍程度リードしていました。
実に4倍にふくれ上がっていた兵力差
こちらが開戦後の兵力比較。もう、「無理ゲー」ですよね。
小早川勢が東軍につき、吉川・毛利勢が参加しなかったため、西軍で戦っていたのは半分に満たない3万程度でした。通説によると、合戦は午前8時に始まって午後2時頃に終わったといわれていますが、参戦した生駒利豊の書状や、梵舜(ぼんしゅん)という僧侶の日記などを見ると、もっと早く決着がついたようでもあります。いずれにしても、これだけの兵力差があっては仕方ありません。
そうなった要因を挙げればきりがないので避けますが、関ヶ原の合戦当日を迎えるまでにさまざまな政略が働きました。各大名の行動により、半ば勝敗が決していたといえます。無謀といえばそれまでですが、逆にこれだけの兵力差があったも関わらず戦い続けた西軍諸将をリスペクトしたいです。
合戦後、いちばん昇給したのは誰?
さて戦後、勝利した東軍の各大名の多くが加増を受けています。プロ野球選手の年俸ではありませんが、だれが一番「アップ」を勝ち取ったのか。それは、松平忠吉(ただよし)です。この人は徳川家康の四男で、2代将軍・秀忠の実の弟。開戦時、宇喜多の軍勢に鉄砲を撃ちかけ、一番槍の功名を得たといわれていますから、その血縁関係も手伝って武蔵・忍(おし)10万石から、清洲52万石へと昇給。5倍もの加増を得ました。戦場での働きはもちろん、内応工作でも活躍した黒田長政や福島正則も2倍以上の加増を得ています。
合戦後、いちばん損をしたのは?
いっぽう敗者となった西軍についた武将たちは、軒並み悲惨です。大谷吉継は戦場で自刃、首謀者の石田三成・小西行長・長束正家などは斬首や切腹という末路を遂げています。真田昌幸に代表されるように、生き残った武将の多くも「改易」され、昨日までの大名が「浪人」へと身を落としたのです。上杉景勝や毛利輝元は改易こそ免れましたが、領地を1/4まで削られました。西軍の総大将についた毛利は、吉川広家の必死の嘆願で、かろうじて命脈を保ちます。敗者の常とはいえ厳しい数字ですね。石高は国の経済力そのもの。もし、自分の収入が1/4になったら・・・想像するだけで大変です。
ちなみに、小早川に追従して寝返った者は良くて所領安堵。小川祐忠、赤座直保は不忠者として領地没収、改易の憂き目に遭いました。実にシビアです。
オマケ。合戦の参加者で、最年長は誰だった?
最後に、オマケとして、合戦に参加した主力大名の年齢を並べてみました。
両軍最年長は、金森長近(かなもり ながちか)。18歳の頃に織田信長に仕えて以来、60年近くも戦乱の荒波をくぐり抜けてきた古豪です。戦後は、飛騨高山藩主(6万石)になり、85歳の天寿を全うするのですが、82歳にして子をもうける絶倫ぶりを発揮(1608年没)。西軍の最年長、島津義弘も85歳まで長命したタフな人でした。
最年少は小早川秀秋(19歳)と、先ほども紹介した松平忠吉(21歳)。
意外と20~30代は少なく、ベテランが活躍した合戦だったことが分かります。おもしろいことに、両軍の平均年齢が大体40歳ぐらいに落ち着きました。いずれにしても早熟な人から大器晩成型の人まで、多種多様なタイプの武将がこの大一番に挑んだのです。
【文:上永哲矢(哲舟)】
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