毎年9月の第3月曜日は敬老の日。法律上は、「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日と定められています。
しかし、老いてなお盛んとばかりに現役で活躍中の人も少なくありません。老いてこそ輝きを増したという、大器晩成型の人も歴史上にはたくさんいるのです。
「大器晩成」の由来とは
「大器晩成」という言葉の出典は、中国の古典『老子』。「大きな器は完成するまで時間がかかる」と解釈されて今の意味になりました。
「大器晩成型の人物」と評価された最古の人と考えられているのは、中国の三国時代の政治家・崔林だそうです。では、日本史上の大器晩成と言えば、誰がいるでしょうか。3人の有名な偉人をご紹介します。
第2の人生で測量の夢を叶えた伊能忠敬
1人目は伊能忠敬。自らの足で日本を測量し、現代の衛星写真ともよく重なるほどの正確な日本地図を作った人物で、歴史の授業でもまず覚えさせられる人物です。
日本の測量には17年かかり、地図が完成したのも忠敬死後という大事業。ただ、忠敬が存命中に完成しなかったのは、そもそも測量を始めたのが55歳の時という年齢的な問題もあったようです。
伊能忠敬は、そもそもは名主であり商人。息子が成人したことで隠居し、50歳から暦学へと傾倒していきました。
ですが、正確な暦を作るには地球の大きさを知る必要があります。忠敬は、江戸から蝦夷地の距離を出せば、およそ計算で割り出せると考え、幕府に日本測量の許可を願い出ます。
はじめ、幕府は断っていたようですが、蝦夷地では帝政ロシアの圧力が増していて緊張が高まっていました。それに対抗するためには蝦夷地の実態を調査する必要があると考えた幕府側の思惑と忠敬の願いが重なり、55歳にしてやっと測量の夢が叶ったのです。
73歳で亡くなるまでの約17年間、約4千万歩(!)歩いたと言われています。
謹慎処分を経て活躍した山岡鉄舟
2人目は、山岡鉄舟。幕末の幕臣で、勝海舟、高橋泥舟と並んで「幕末の三舟」と称される偉人です。新選組の前身である浪士組の結成や、戊辰戦争における江戸城無血開城に携わっています。
しかし、戊辰戦争までは浪士組の始末で謹慎処分にもなっていたり、51歳のとき門人たちに講義をした記録が『武士道』として残されたことなどから「大器晩成」と言われることもあるようです。
先祖に鹿島新当流の開祖・塚原卜伝がいる血筋からか、武術の才能は幼少期から発揮しているなど、わりと若い内から活躍しているんですけどね・・・。
62歳にして天下人になった徳川家康
そして最後の3人目は、ご存知徳川家康。約260年続いた江戸幕府の開祖であり初代徳川将軍ですが、天下人としての征夷大将軍の地についたのは、家康が62歳になってから。それまでは今川、織田、豊臣に仕え、長い“雌伏”の時を過ごしていました。
日本を代表する人物であると同時に、日本史上一番有名な「大器晩成型」とも言えそうです。
大器晩成の形は人それぞれ
大名として高みにありつつも、さらにトップへのし上がった徳川家康。隠居後、第二の人生で夢を叶えた伊能忠敬。不遇ながらも後に目覚ましい活躍をした山岡鉄舟。三者三様の「大器晩成」の形がうかがえます。
敬老の日は、お年寄りの話に耳を傾けてひとつの「歴史」を聞きつつ、自分の第二の人生、どんな夢を叶えるか?その手段は?・・・なんて思いを馳せるのも良さそうです。
(Sati)