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【全国銅像設置数ナンバーワン】百姓から大出世!二宮金次郎こと二宮尊徳

【全国銅像設置数ナンバーワン】百姓から大出世!二宮金次郎こと二宮尊徳

10月になり、秋といえば読書の季節、という方も多いのではないでしょうか。
読書といえば、二宮金次郎こと二宮尊徳のイメージが強いですよね。
(本当の通称は「金治郎」だそうですが、一般には「金次郎」と表記されて親しまれているので、ここではあえて金次郎と表記します。)
二宮金次郎は銅像になって日本全国の小中学校に設置されています。その数なんと1000体以上とも言われ、銅像設置ランキングではぶっちぎりの1位です。けれど、どんな人物だったかは意外と知らないのではないでしょうか。金次郎ゆかりの地に住む筆者が彼の足跡についてご紹介します。

百姓から大出世!二宮尊徳の生涯

二宮金治郎こと二宮尊徳
「百姓から侍へ大出世を遂げた二宮金次郎こと尊徳」

二宮尊徳は天明7(1787)年に相模国足柄上郡栢山村(神奈川県小田原市)の農民の子として生まれました。通称は金次郎(本当は金治郎らしい)です。当初は豊かな農家だった二宮家ですが、慈善家だったために財産が激減してしまいます。加えて、金次郎が幼い時に酒匂川の大洪水によって田畑を失ってしまうのです。そして父が病気になり、金次郎が代わりに働くようになりました。不幸は続き、14歳の時に父が、16歳の時に母が亡くなり、彼は伯父に引き取られます。家を再興できたのは、24歳の時でした。

その後、金次郎は小田原藩家老の服部家に仕えます。ここでは財務の建て直しで成果を収め、藩主の大久保忠真にも認められました。それによって、彼は藩の分家・宇津家の領地である下野国桜町(栃木県真岡市)の復興を命ぜられたのです。

すべての財産を売って資金を作り任地へ赴いた金次郎は、村民の反発などを乗り越え、荒地を開発し、治水を行い、農民の生活を改善して見事に桜町を復興させました。赴任当時取れ高4千石に対して900石しか年貢が採れなかったのですが、3千石にまで改善したのです。
この手腕が認められ、下野国烏山(栃木県那須烏山市)や常陸国青木村(茨城県桜川市)の復興にも携わりました。

天保13年(1842)、幕府の役人となった金次郎は「尊徳(たかのり)」と名乗ります。農民からの大出世でした。
その後は日光山領の復興に関わり、安政3(1856)年に70歳で病没しました。

二宮金次郎像の由来

小中学校によく見られる金次郎像ですが、原型は幸田露伴の「二宮尊徳翁」の挿絵に登場したものです。銅像として最初に作ったのは岡崎雪聲で、それを明治天皇が買い取りました。
大正末期に愛知県前芝尋常小学校に石像が設置されると、以後建立ブームとなります。尋常小学校の唱歌になったりもしました。

愛知県前芝尋常小学校に設置された日本最古の二宮金次郎像
愛知県前芝尋常小学校に設置された二宮金次郎像

これは、金次郎が自主的・献身的に農政に取り組んだ勤勉さをモデルに、国民が国家に献身するよう政策を掲げた政府の思惑があったそうです。

飢饉を察知した?金次郎の逸話

「金次郎が暮らした桜町陣屋(栃木県真岡市)」
「金次郎が暮らした桜町陣屋(栃木県真岡市)」

金次郎は身長182㎝、体重94㎏の偉丈夫だったそうです。筆者も資料館で帷子や脚絆など見てきましたが、大きそうでした。

そんな金次郎、ナスの味で飢饉を察知したという逸話があります。
天保4(1833)年の初夏、出先でナスを食べた彼は、それが秋ナスの味がすることに気づきました。帰ってから稲を見てみると、葉が弱っていたそうです。これは飢饉の前触れだと、金次郎は人々に雑穀を植えるように指示しました。
そして天保の大飢饉が起こったのです。多くの人が亡くなる中、桜町だけは備えがあったおかげで死者はゼロでした。

復興に至るまでの道のりは多難でした。金次郎のやり方に反対する農民たちや、それを支持する役人たちとの軋轢が生まれたのです。行き詰った金次郎は、ある時ふっと行方不明になってしまいました。驚いた人々が探すと、なんと彼は成田山にこもり断食をしていたというのです。彼の真剣さを感じた人たちは出迎えに行き、以後一致団結して復興に取り組んだということでした。

金次郎の「至誠・勤労・分度・推譲」の考えは、報徳思想として現在に受け継がれています。
しかし、金次郎の銅像が「歩きスマホを助長する」ということで撤去されたという話を聞くと、胸が痛む今日この頃です。

(xiao)

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