歴人マガジン

【鼻毛の殿様】加賀百万石を守った名君・前田利常

威風堂々、貫録ある風貌こそが殿様のあるべき姿だと、一般的には思われているはず。しかしそれが通用しない相手が、金沢の地にいたことをご存知でしょうか。日本の歴史に変人奇人はつきものですが、今回ご紹介する前田利常もそのひとりであり、例外でもありました。

前田利家の四男として生まれて

「前田利常の肖像(鼻毛ではなくて髭です)」
「前田利常の肖像(この絵で描かれているのは鼻毛ではなく髭です)」

前田利常は、文禄2(1594)年に前田利家の四男として生まれました。母は側室だったため、長姉の幸姫の夫・前田長種のもとで育てられています。そんなこともあって、利常が父・利家に初めて会ったのは慶長3(1598)年、利家の死の前年のことでした。

前田家当主にして加賀藩主となった長兄・利長には男子がなかったため、利常が養子となり家督を継ぎます。正室には徳川秀忠の娘・珠姫(この時なんと3歳)を迎え、将軍家との関係を強化しました。そして大坂の陣では徳川方として戦っています。

幕府ににらまれ大ピンチ!

前田家は外様大名であり、120万石もの石高を誇る一大勢力でした。そのため、常に幕府からにらまれる存在となってしまうのです。

「金沢城」
「金沢城」

そんな折、利常の住まう金沢城は火災に遭い、補修工事をしなくてはならなくなります。これに幕府が難癖をつけてきました。加賀藩が城を堅固にして、謀反を企てているというのです。

寛永8(1631)年、これは加賀藩にとって「寛永の危機」と呼ばれる一大ピンチとなり、藩主の利常と嫡子・忠高が江戸へ行って釈明をしなければならなくなりました。近臣の奔走もあって何とか事なきを得ましたが、常に幕府からいちばんに監視される存在なのだということを改めて感じることとなったのです。

鼻毛を伸ばすぞ!

この事件以降、利常はおかしな行動を取り始めます。
江戸の屋敷にこもったきり、日がな一日遊び続けているのです。いわゆる「バカ殿」になってしまったんです。しかも利常は鼻毛を伸ばしっぱなしにし始めました。

「こんな感じでしょうか?」
「こんな感じでしょうか?」

これでは殿様として威厳も何もあったものではないと、側近たちは手を変え品を変え、何とかして利常に鼻毛を短くしてもらおうとします。ある者は出張の土産物だとして手鏡を献上したり、近習たちは利常の前でわざと鼻毛を抜いて見たり・・・と色々やってみたのですが、利常は一向に鼻毛を切ってくれません。
しかし、ある者が鼻毛抜きを献上するに至って、ついに利常は皆を集めて口を開きました。

「私が鼻毛の伸びたうつけ者と言われていることは知っているし、お前たちがわざと私の前で鼻毛を抜いたりしていたのも知っている。しかし、私のこの鼻毛は、三国(加賀・能登・越中)を守り、お前たちを安泰に暮らさせるための鼻毛なのだ」

これぞ利家・慶次・そして利常へと受け継がれた、前田家伝統の「うつけ(かぶき)」ですね。あえてバカなふりをして監視の目を逸らすという、利常なりの処世術だったのです。

利常のうつけ炸裂

利常のうつけぶりは、特に江戸で猛威を奮いました。
病で登城しなかったことを皮肉られると、袴をまくって股間をさらし、「ここが痛くてかなわんのだ」と弁解したり・・・江戸城に「小便禁止、したら罰金」の立札を見つけるなり、わざとそこで立小便をしたり・・・とやりたい放題でした。
「大名が罰金惜しさに小便を我慢するものか!」とは利常の弁です。絶対楽しんでると思います・・・。
幕府側も、こんなヤバそうな相手、うかつに手を出せませんよね(笑)まさに利常の狙い通りでした。

小便小僧
「利常には立札は無効です」

そのかたわら、50年にわたり政務を執り続けた利常は、内政に力を注ぎ、美術や工芸など伝統文化の保護育成を行いました。これが絢爛豪華な加賀百万石の文化の礎となったのです。

国に帰れば名君で領民から尊敬を集めた利常には、親愛の情をこめて「鼻毛様」の尊称を送りたいと思います。実に尊い鼻毛です。

(xiao)

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