慶長20年(1615)5月5日から8日まで、4日間にわたって繰り広げられた「大坂夏の陣」。この徳川と豊臣、最後の対決では、さまざまなドラマが生まれた。特に5月6日に起きた「道明寺・誉田(どうみょうじ・こんだ)の戦い」は、真田幸村(信繁)と伊達政宗の軍勢が直接対決を繰り広げるなど、歴史上でも重要な意味を持つ一戦となった。
その経緯を簡単に記しておこう。東西の両軍先鋒は、6日の未明に道明寺の東、小松山で激突。しかし、豊臣軍の先陣を切った後藤又兵衛の軍勢が「内府方の兵から勇敢に迎え打たれた。又兵衛軍は激しく攻めたてられ、内府(徳川)軍はほとんど何の苦もなく勝利を得た」とあるように、午前10時ごろには後藤勢は崩れ、徳川軍が小松山を制した(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)。
後手となった真田勢や毛利勢が、何時頃に徳川軍と交戦を開始したのかは諸説あり、分かっていない。ともかく道明寺南方の野村にて真田勢と伊達勢の先鋒が鉢合わせし、伊達の先鋒・片倉重綱の率いる騎馬鉄砲隊が真田隊めがけて一斉に銃撃を開始した。対する真田勢は多くの犠牲を出すが、「ここを堪えよ!」と幸村は踏みとどまり、督戦に務めた。
幸村は片倉勢の接近を待ち、一斉に「槍ぶすま」をもって反撃にかかる。これに片倉勢は浮足立った。しかし、片倉重綱は幸村勢が少ないと見て踏みとどまり、自ら刃を振るって真田の兵4人を切り伏せたという。幸村は岡の上へ登り、片倉勢を誘い込もうとするが、重綱は挑発に乗らなかった。その後も一進一退の攻防を続けるが、やがて夕刻となって双方撤退し、痛み分けに終わる(『片倉代々記』など)。
その夜、幸村は片倉重綱の陣中へ、密かに五女(三女の説もあり)阿梅(おうめ)たちを送り届けた。さらに、大坂落城後には家臣らに護衛されつつ、幸村の次男・真田大八が片倉の陣へ入ったという。重綱は幸村の遺児5人(大八と姉4人)を託される形で、奥州・白石城へ連れ帰ることになった(『老翁聞書』など)。一方で『片倉代々記』によれば、重綱は大坂城へ攻め入った時に美しい女を生け捕りとし、それが後に幸村の娘(阿梅)と判明したと記されている。
片倉重綱は、なぜ幸村の遺児を保護したのか
重綱は、なぜ幸村の遺児を保護したのだろうか。その理由はハッキリしていないが、じつは真田家と片倉家は、いずれも信州に先祖を持つ同郷の一族だった。そして幸村も重綱も、文禄・慶長の頃に豊臣秀吉の人質として伏見で暮らしていたが、その時期が重なっており、懇意にしていた可能性がある。大坂の陣の最中、両者の間にそうした密約が交わされていたとしても不思議ではない。
大坂城が落ちたのは道明寺での激突から2日後の5月8日。それから3ヶ月ほど経った慶長20年(1615)9月、重綱は居城の白石城へ凱旋した。白石城(宮城県白石市)は、関ヶ原の戦い後に片倉氏が代々治め、伊達政宗の居城・仙台城(青葉城)の支城の役割を果たした城だ。
連れ帰られた大八は白石城外で養育され、片倉家の客分として暮らした。しかし、大人になっても「真田」の姓は名乗れず「片倉守信」と名乗る。阿梅ら4人の姉たちは二の丸屋敷に置かれ、家臣たちに養育される。元和6年(1620年)、阿梅は重長の側室に迎えられ、正室が死去した後は継室となった。重綱との間に子はできなかったが、延宝9年(1682)まで生き、83歳の天寿を全うしている。
片倉守信(大八)は、一度は真田姓に復して「真田守信」と名乗るも、それが徳川幕府に漏れてしまう。そのため片倉姓に戻して元通りに生活し、姉に先立って寛文10年(1670)に59歳で死去した。白石城下にある当信寺には、その大八と姉・阿梅の墓が並んで建っている。
阿梅の墓標(左)は、元は観音像だったといわれるが、「この像を削り取って、粉にして飲めば歯痛に効く」と信じられていたので、削り取られて原型が分からなくなってしまっている。その右にある、大八の墓石には六文銭ならぬ「一文銭」が刻まれており、彼の真田家に対する思いの強さが伝わってくる。
真田への正式な復姓が叶ったのは、大八(守信)の跡を継いだ息子の辰信(ときのぶ)の代だった。「すでに将軍家を憚るに及ばず」と伊達家の内命を受け、正徳2年(1712)に真田姓に復したという。大坂の陣からすでに100年近くが経過し、当時を知る人もいなくなってからだった。こうして「仙台真田家」が誕生したのである。
遺髪が眠る? 九女・阿菖蒲が建てた幸村の墓碑
同じく白石市の田村家墓所には、「真田幸村の墓碑」がある。写真左の、のっぺりした細長い石がそれだ。幸村の遺髪を、九女・阿菖蒲(おしょうぶ)が密かに埋めて供養したものと伝わるが、墓碑には名前などは何も刻まれていない。むろん、江戸時代当時は、これが何者の墓であるか分かってしまっては困るからだ。
阿菖蒲は天下が落ち着いた後に白石に呼び寄せられ、片倉定広(大名・田村氏の末裔)に嫁いだ。彼女自身の墓(写真右)も、幸村墓碑の隣に寄り添うようにして佇んでいる。墓地は、いつ訪れても丁寧に清掃されており、地元の人々に大切にされている様子が伝わってくる。
蔵王に完成した、真田の新スポット
大八から続いた仙台真田家の当主は、白石城から約14キロ北へ離れた蔵王(宮城県刈田郡蔵王町矢附)に領地を与えられ、その屋敷で暮らした。「蔵王」と聞けば、大きなスキー場がある山形県の蔵王をイメージする人が多いかもしれないが、仙台の南に位置する蔵王町のほうだ。
ここが「仙台真田家の郷」であることを示すのが、仙台真田家8代当主・真田幸清(ゆききよ)の供養碑(筆子塚)と、辰信の代に分かれた分家の6代当主・真田豊治(とよはる)の墓碑だ。現在ここに武家屋敷のようなものはなく、畑が広がるのみ。その一角にひっそりと佇む古びた碑は、いずれも彼らが亡くなってすぐ、明治5年~10年に建てられたものである。
両名の碑には、「左衛門佐幸村十世」「幸村十一世」と刻まれていることが確認できる。江戸時代の間は、隠し通さなければならなかった幸村との関係性を、明治になってようやく公表し、こうして刻むことができたという。幸清は、ここ矢附(やづき)に私塾「真田塾」を開いて学問を教えていたため、この碑も門弟たちが塾の一角に建てたものだ。
2つの石碑は、以前までは少し離れた場所に佇んでいたが、幸清の碑が豊治の碑の隣へ移設され、2016年12月に「真田の郷 歴史公園」として蔵王町が整備した。墓碑の周囲が舗装されて歩きやすくなり、仙台真田家について解説する看板や、ベンチも設けられた。
仙台真田家発祥の地として、立派に整備された歴史公園。地元の方々の憩いの場、歴史好きな観光客の歓談の場として、ますます愛されていくことだろう。地元の住民団体「矢附真田の会」の方々は、バスツアーで訪れる大勢の観光客を地元の見どころへ案内し、甘酒や果物などを振る舞っているという。赤備えのジャンパーが目印だ。
記念イベントの模様を少しだけ紹介!
先の「真田の郷 歴史公園」が完成した2016年12月3日、蔵王町にある「ふるさと文化会館」(ございんホール)で、仙台真田家に関する歴史対談「地域に受け継がれた真田の血脈~歴史を知ることで見える地域の未来」が開催された。
講師は真田徹さん(仙台真田家の当主)、片倉邦雄さん(幸村の娘・阿菖蒲の末裔)、若柳梅京さん(日本舞踊家、実家が白石市の傑山寺)の3名。歴史タレントの小栗さくらさんの司会で行われた。
右端が、幸村から14代目、仙台真田家としては13代目にあたる当主・真田徹さん。「白石や蔵王(宮城県)には、守信や阿梅の足跡が人知れず残っていました。これほど興味深い歴史事実を埋もれさせるには惜しいと思い、10年前ぐらいから地元で活動を始めたんですが、当初は『あんた誰?』『真田ってなに?』という状態でした(笑)。でも、今はこのように地元の方々の熱意、ご尽力のおかげで、仙台真田家が知られるようになりました。感謝したい。来年以降『真田丸ブーム』が終わってからが本当の勝負だと思っています」
「できれば、『真田丸』にも阿菖蒲が登場して欲しかった。『大坂の陣』からが、仙台真田家の始まりなので、その存在をさらに知ってもらえるようにできれば」と語った片倉邦雄さん(左から2人目)。幸村の娘の末裔であり、また元外交官で湾岸戦争時にイラク駐箚特命全権大使を務めた経歴をお持ちの方だ。
「白石城で毎年行われる『鬼小十郎まつり』も、最初は小さいイベントでしたが、第9回を迎えた今年は1万人が集まりました。どんなことも一歩一歩、努力することが大切ですね」と話したのは、それらの地域イベントにも深く関わる若柳さん(右端)。仙台真田家が辿った数奇な歴史の流れを噛み締めつつ、地域の未来像をともに考えることができた楽しいトークショーだった。
翌日も同会場では、「対談 小説『仙台真田氏物語』を読む」が行われた。2016年に刊行された「仙台真田氏物語・幸村の遺志を守った娘、阿梅」の著者で、児童文学者の堀米薫さん(右)を招き、同書の執筆にあたっての裏話や苦労された点、ハイライト部分の読み上げなどが行われた。司会は真田イベントではおなじみの存在、早川知佐さん(歴史プロデューサー)が務めた。この本を読むと、仙台真田家の成り立ちが、ほぼ理解できるだろう。
小説『仙台真田氏物語』の挿絵を手掛けた大矢正和さんの原画展も開催されていた(こちらは現在も見られ、12/25まで開催)。
真田グッズや特産物の販売コーナーも出ていた。白石名物の温麺(うーめん)が入った「阿梅の文箱」は、現存する実物をイメージした箱が特徴。幸村と大八のイラスト入り「玉こんにゃく」もユニークだ。遠刈田温泉の陶器アトリエショップ「花*花」さんの猫武将をあしらった小皿や御猪口も目を引く。
これらのイベントの仕掛人のひとりで、蔵王町教育委員会の佐藤洋一さんは、「蔵王が真田ゆかりの郷であることを本格的にPRし始めたのは2009年からでした。真田徹さんもおっしゃるように、当時は蔵王と真田との縁を知る人は地元でもごく少数だったんです。それが徐々に実を結び、『真田丸』の人気もあって、注目される機会も増えてきたと実感しています。今後も地元のみんなで力を出し合い、魅力のある町にしていきたいと思っていますので、ぜひ遊びにきていただきたいです」と話す。
真田の史跡といえば、どうしても信州上田や松代、大阪に目が行きがちになる。でも、せっかくなので『真田丸』完結の余勢を駆って、白石や蔵王を訪ね、幸村の子孫が刻んだ足跡を見てみるのも悪くない。そこには「もうひとつの真田の郷」がある。
東北はこれからいよいよ寒くなるけれど、白石蔵王は温泉の宝庫でもある。青根温泉や鎌先温泉は伊達家ゆかりの名湯。共同浴場「神の湯」で有名な遠刈田(とおがった)温泉も、湯の質が良くて体を芯から温めてくれる。本当に自然豊かでのんびり過ごせる場所だ。訪れる際は、ぜひとも泊まりがけで。じっくりと、どうぞ。
【文/上永哲矢(哲舟)】
■仙台真田氏の足跡マップ
http://www.dokitan.com/sanada/site/
■蔵王町の歴史と文化財公式ホームページ
http://www.dokitan.com/
■遠刈田温泉
http://togatta.jp/
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