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【あの武田信玄も怖れた!】今川家を支えた女戦国大名・寿桂尼

「おんな城主 直虎」で、浅丘ルリ子さんが演じる今川義元の母・寿桂尼。その存在感たるや、その辺の戦国大名をはるかに上回っていますよね。実際、寿桂尼は「女戦国大名」とまで呼ばれ、あの今川家を取り仕切っていた時期もあるんです。今回は、彼女にまつわる出来事や後への影響などをご紹介します。

名門・今川家を支えた寿桂尼とは?

寿桂尼(じゅけいに)の姿が伝わる資料はほとんど残っておらず、ミステリアスな存在です。寿桂尼とは出家後の名で、本名は不明。生年も不詳ですが、藤原氏の流れを汲む中御門家に生まれました。その後、戦国大名・今川氏親の正室となり、長男・氏輝、二男・彦五郎、五男・義元と娘一人をもうけたと伝わっています。

晩年の氏親は病のため政務を執ることができず、寿桂尼はその代行を務めていたというのがもっぱらの説です。そんな女傑・寿桂尼のエピソードをご紹介しましょう。

「女戦国大名」として政務を取り仕切る

「今川義元が大名になれたのはのは寿桂尼のおかげ?(『太平記英勇伝三』(落合芳幾作)」

大永6(1526)年に氏親が没しますが、後を継いだ長男・氏輝はまだ14歳で、政治を見るには若過ぎたため、寿桂尼が政務を代行することになります。彼女は自身の判子を持っており、それを文書に押印していました。この印は、花押を持てない女性にとって、いわば戦国武将の花押と同様です。寿桂尼は公家の姫でありながら女戦国大名として、今川家の屋台骨となったのでした。「尼御台(あまみだい)」と呼ばれたのもこの頃です。北条政子が「尼将軍」と呼ばれたのと同じ意味合いでしょうね。

ところが、天文5(1536)年、氏輝と二男の彦五郎が相次いで亡くなってしまいました。他の男子は寺へ入るか他家へ養子に出ていたため、家督を巡り争いが起こります。その中心にいたのが側室腹の三男・玄広恵探と、寿桂尼が産んだ五男・栴岳承芳(後の義元)でした。これが「花倉の乱」です。

寿桂尼は重臣の太原雪斎らと組み、栴岳承芳を応援しました。母の熱烈な応援の甲斐あってか、栴岳承芳は勝利。還俗して義元と名乗り、今川家の当主となりました。後に「海道一の弓取り」と呼ばれる義元が家督を継いだことで、寿桂尼はしばしの間、緊張を緩められたかもしれません。

「死して今川の守護たらん!」今川家を守る固い決意

「今川家の運命を一変させた桶狭間の戦い(『尾州桶狭間合戦』 歌川豊宣画)」

ところが、今川家の運命を一転させる出来事が起きます。永禄3(1560)年、義元が桶狭間の戦いで織田信長に討ち取られてしまったのでした。後を継いだ氏真は政務にそれほど興味を示さず、蹴鞠三昧で今川家当主としての力量はたかがしれたものでした。
寿桂尼は氏真を支え続けましたが、永禄11(1568)年に亡くなります。享年は不明ですが、70~80歳代とされています。

彼女の生前の意思は、「死しても今川の守護たらん!」という強いものでした。そのため、今川館の鬼門である艮(うしとら)の方角に葬られることを望んだのです。本来なら夫のそばに葬られるものですが、そういう選択肢をあえて捨てたのですね。さすが女戦国大名、覚悟のほどが違います。

「寿桂尼の墓所がある龍雲寺。使用した「歸」の印判を刻んだ石碑も立つ」
(※画像は静岡市提供)

あの武田信玄も寿桂尼を恐れていた!?

武田信玄(晴信)像

寿桂尼は、武田信玄とその正室・三条夫人の縁談を斡旋したとも言われています。三条夫人も公家出身なので、もしかすると寿桂尼の公家コネクションが活きたのかもしれませんね。その後、義元の代で今川・武田・北条で互いに婚姻関係を結び同盟を強化(甲相駿三国同盟)するも、関係はやがて破綻します。

強大化した信玄は、弱体化する今川を狙っていました。しかし寿桂尼を怖れ、なかなか攻められずにいました。寿桂尼が亡くなった年、満を持して駿河へ侵攻すると同時に、今川家臣への調略まで始めました。今川領内に攻め込むと、寿桂尼の墓がある龍雲寺を焼き払い、彼女の墓まで破壊したほどだったのです。
信玄にとって、寿桂尼の存在は脅威だったと言えるでしょう。

尼でありながら今川家を取り仕切った寿桂尼は、時代が重なる井伊直虎のお手本的存在だったと考えてもいいかもしれません。戦国武将と同等に渡り合った彼女の手腕は、もっと大きく紹介されてもいいと思いませんか?

(xiao)

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