歴人マガジン

歴人マガジン

【 春風亭昇太さんの怪演に注目!】海道一の弓取り・今川義元と井伊家の関係

大河ドラマ「おんな城主 直虎」で、春風亭昇太さん演じる今川義元をご覧になりましたか?メガネのない昇太さんに違和感満載なのですが、それ以上にマロ眉&白塗りに衝撃を受けた方も多いのではないでしょうか。しかし今川義元といえば強力な戦国大名。また、ドラマの中心である井伊家とはどんな関係だったのでしょうか。今回は、少々誤解も多い今川義元について迫ります!

今川義元の生涯

「桶狭間古戦場跡にある義元像はとても凛々しいですよ」

今川義元というと、桶狭間の戦いで織田信長に敗れたという印象が強いですが、まずはそれを置いておきましょう。

永正16(1519)年、今川氏親の五男として生まれた義元は家督を継ぐ立場にはなく、すぐに仏門に入り栴岳承芳(せんがくしょうほう)と名乗りました。その時に出会ったのが、今川重臣であり僧でもあった太原雪斎です。彼と共に京都へ行った義元は、そこで学問に励みました。
ところが、兄の氏輝が急死すると、家督争いに巻き込まれていきます。還俗した義元はそれを勝ち抜き、今川家の当主となったのでした。

彼は周辺勢力との同盟や戦のバランスを取りつつ、遠江・駿河と三河、尾張の一部にまで勢力を伸ばします。その手腕たるや、「海道一の弓取り」と称されるほどでした。

内政にも長けた義元は、家臣団との結び付きを強めて領国経営を安定させ、室町幕府の一守護大名から戦国大名へと変化していきます。武田氏・北条氏との甲相駿三国同盟を成立させ、背後の敵をなくした彼の視線は、京都への上洛へと向いて行ったのでした。

しかし、永禄3(1560)年、運命の戦いが桶狭間で起きるのです。織田信長の奇襲を受け、天下取りを目された義元はあえなく討死を遂げたのでした。

桶狭間古戦場にある今川義元の墓

高貴なる最強戦国大名

幼少時から京都に住み、公家文化に造詣を深めた義元は、眉を抜いてお歯黒をしていたともいいます。しかしこれは教養の高さを示すもので、決してマイナスイメージではありませんでした。
桶狭間の戦いの際に輿に乗っていたということで、馬に乗れないほど太っていたからだと言われることもありますが、それは少し違います。彼は足利将軍家と縁戚関係にあり、将軍に輿に乗ることを許されており、それを誇示していたとみられています。

いわば、ただの戦国大名とは一線を画した、高貴でインテリかつ強いというすごい人物だったんですよ。

井伊家との関係は?

遠江・井伊谷城

元々、井伊家は遠江の国人であり、今川氏の進出時には抵抗勢力でした。しかし義元の生まれる少し前に、直虎の曾祖父・直平が支配下に入ったのです。そのため、直虎の父・直盛は義元に仕え、主と共に桶狭間で戦死しました。

一方、今川家と井伊家には因縁もあります。
直虎の元許婚・直親やその父である直満は、親今川派となった家老・小野政直と政次父子の讒言によってそれぞれが義元と氏真父子に殺されてしまいました。今川家に仕えながらも常に何らかの粛清を受けていた井伊家、決して穏やかな関係ではなかったように思えます。
もちろん、直虎も今川家にはいろいろな思いがあったはず。何といっても、元許婚を殺されているんですから・・・。

そしてこの後、今川家は武田信玄と徳川家康の侵攻を受けて領地を失い事実上の滅亡、氏真は流転の人生を歩むこととなります。
一方、井伊家は家康の支配下に入り、直虎が守った直親の息子・直政が取り立てられてみごとにお家再興となっていくわけですね。

貴族の趣を感じさせながら、周囲を震え上がらせる強さを誇った義元。彼の時代は直虎が表舞台に立つより少し早かったために、直接関わることはほぼなかったでしょう。しかし、もし義元が長生きしていたら、井伊家は本当に滅んでいたかもしれませんね。

(xiao)

関連記事
【真田丸 赤備え対決の63年前】井伊直虎と真田昌幸には意外な共通点があった?
【信長はやっぱり凄い?】孫子で検証する桶狭間の戦い
【2017年大河ドラマ】「おんな城主 直虎」井伊家ゆかりの地まとめ

Return Top