5月の第2日曜日は母の日ですが、皆さんのお母様はどんな方ですか?強い?優しい?それとも・・・鬼?
歴史上の偉人たちの功績の裏には、たくさんの母の力がありました。今回は歴史に名を残す、印象深い母たちをご紹介します。母の日、感謝しましょうね!
本当に息子を毒殺しようとした?伊達政宗の母・義姫
伊達政宗の母であり、最上義光の妹である義姫は、美人で頭も良く、男勝りの女性だったそうです。伊達VS最上の大崎合戦の際には、戦場に輿で乗り込み停戦を斡旋しています。
そして、義姫といえば、政宗毒殺未遂事件という逸話があります。
政宗の小田原参陣直前、義姫は息子に毒入りの膳を出したというのです。政宗は危うく命を落としかけましたが何とか助かり、母が溺愛していた弟・小次郎を斬殺したといわれています。
これには、義姫が小次郎を後継ぎにしようと願っていたとか、実家の最上家の陰謀という説がありました。
しかし、この事件があったとされる時期以降も、史実では義姫は政宗のもとに滞在しています。それだけでなく、手紙のやり取りも頻繁で、朝鮮出兵中の政宗には無事の帰還を願う文を出しているんです。政宗もそれに感激し、義姫への贈り物を探し回り、「ぜひとも日本でお会いしたい」と手紙を添えて贈り届けています。
こうした母子の愛情に満ちたやり取りをみると、毒殺未遂事件が本当かどうか、疑問符が付きますよね。
最上義光の没後、政宗は義姫を仙台城に引き取っていますし、義姫は当時高齢となって目が悪かったにもかかわらず、政宗の正室・愛姫に手作りの下げ袋をプレゼントしています。息子やその妻を細やかに気遣う、愛情深い女性だったに違いありません。
九州の尼将軍!龍造寺隆信の母・慶誾尼(けいぎんに)
龍造寺隆信の母・慶誾尼は、九州における寿桂尼と言っても良い存在です。
舅や夫が謀殺されると、息子を当主に据えて補佐し、龍造寺の影の屋台骨となります。
大友宗麟に城を包囲され絶体絶命となった時には、弱気になる面々を「猫の前で怯える鼠のようじゃ!」と叱咤して夜討ちを提案し、これが結果的に起死回生の大逆転勝利につながりました。
また、後に隆信の右腕となる鍋島直茂の才を見抜き、なんとその父・鍋島清房のところへ押しかけて再婚してしまったのです。これで隆信と直茂は義兄弟となり、直茂は以後龍造寺家の家老として家を支え、隆信の戦死後は慶誾尼の公認のもとで肥前の主となったのです。
隆信から直茂へ実権が移る間も、慶誾尼は隆信の息子や孫を補佐して家を支え続けました。そして、肥前の行く末を確固たるものとした後、慶長5(1600)年に92歳の大往生を遂げました。まさにゴッドマザー。
愛情深き瞼の母・於大
徳川家康の母・於大は、松平広忠に嫁ぎ家康を生みますが、家康が3歳の時に実家・水野家が織田側についたため、今川方の松平家から離縁されてしまいます。
その後、久松俊勝に嫁ぎ子供をもうけますが、家康にはずっと手紙や服、食べ物などを送り続け、母の愛情を注ぎました。面影もはっきりしないとはいえ、母の温かい励ましがあったからこそ、家康は辛い人質生活を乗り越えられたのかもしれませんね。
再会は、家康19歳の時でした。彼は義弟たちに松平姓を与え、於大を母として迎えたのです。彼女は後に内大臣徳川家康の母として、後陽成天皇にも拝謁しました。たゆまぬ愛情への、家康の感謝があったというわけです。
いかがでしたか?彼女たちのような母親がいたからこそ、歴史に名を残す傑物が生まれたわけですね。身をもって道を示したり、手紙を送り続けたり、示し方はそれぞれですが、根底は母の愛でした。
母の日には、私たちもしっかりと日頃の感謝を示したいものですね。
(xiao)
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