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【 「西郷どん」で注目 】西郷と入水自殺を図った月照とは何者?

大河ドラマ「西郷どん」のキャストが次々と発表される中、歌舞伎俳優の尾上菊之助さんが僧・月照役をつとめることが決まりましたね。月照については、同じく大河ドラマの「翔ぶが如く」や「篤姫」で西郷隆盛と心中した僧として記憶にある方も多いのではないでしょうか。「西郷どん」を見るなら知っておきたい勤皇の僧・月照の生涯と西郷との関わりについてご案内いたしましょう。

月照

月照と西郷隆盛の心中未遂

安政5年(1858)11月16日の明け方、錦江湾(=鹿児島湾)を進む一艘の舟から二人の男が海へと身を投げました。一人は薩摩藩士・西郷隆盛。もう一人は勤皇の僧・月照です。

錦江湾。奥に見えるのは開聞岳。
(写真協力:公益社団法人 鹿児島県観光連盟)

暗い海からようやく引き上げられた時、二人は固く抱き合っていたと伝わっています。西郷は何とか一命を取り留めましたが、月照は亡くなってしまいました。西郷の懐には、二人が身を投げる前に詠んだ和歌を記した紙がしまわれていました。

大君の為には何か惜しからむ薩摩の瀬戸に身は沈むとも(月照)
二つなき道にこの身を捨て小舟波立たばとて風吹かばとて(西郷)

月照の和歌は「大君(=天皇)のためならば薩摩の海に身が沈もうとも何も惜しくはない」という意味です。また、西郷の和歌は「(己の信ずる)ただ一つの道(=二つなき道)のためならば波が立とうが風が吹こうが、この身をうち捨てられた小舟同様に捨てよう」という意味。「二つなき道」とは月照と同じく勤皇の志のことです。

西郷が心中しようとした僧・月照とはどのような人物だったのでしょう。

清水寺・成就院住職【勤皇の僧・月照】

月照は、大阪の医者・玉井宗江の長男として文化10年(1813)に誕生しました。後に出会う西郷隆盛より15歳年長です。

月照の叔父・蔵海は京都清水寺の塔頭・成就院の住職をしており、13歳の月照はその後継者として成就院に入りました。15歳で得度し、蔵海の病死した天保6年(1835)、成就院の住職となりました。

現在の成就院庭園(京都市)。

その容姿については「其身短小、中肉、顔色青白く眉長し、恒に藤色衣を着す」と文献にあります(友松圓諦『月照』)。大柄だったといわれる西郷とは対称的な容姿だったようです。

月照の弟・信海も清水寺六坊の一つである光乗院住職でした。嘉永6年(1853)、41歳の月照は、弟・信海に成就院をまかせて、勤皇運動に身を投じていきます。

月照が勤王の僧となった背景には、彼が成就院の住職であったことが大きく関わっています。成就院は、青蓮院宮(後の中川宮。今上天皇の曾祖父)の支配下にあり、また公家・近衛家の祈願寺でもありました。

また、和歌をよくした叔父・蔵海の影響で、月照も和歌を好んでいました。もとより皇室や公卿との関わりのあった成就院ですが、月照は和歌を通じて青蓮院宮や近衛忠煕と懇親を重ねていったのです。

幕末の世の中が開国と攘夷、佐幕と勤皇に分かれて争い始める中で、月照は勤皇の思いをより一層強くしていったのではないでしょうか。

西郷の殉死を止めた月照

月照と西郷がいつ頃出会ったのかは明らかではありません。しかし、友松圓諦の『月照』には、成就院が薩摩藩と深い結びつきがあったことを示す多くの文献が記されています。また、月照が親しくしていた近衛家と島津家とは親しい間柄にあって、近衛忠煕は第10代薩摩藩主・島津斉興の娘・郁姫を正室に迎えています。西郷が薩摩藩の使いとして京都を訪れた際に、月照と出会う機会があったのでしょう。

この頃、第11代薩摩藩主・島津斉彬は、将軍継嗣問題で一橋慶喜を擁護し、安政の大獄を推し進める井伊直弼と対立していました。近衛忠煕もまた公武一体を目指して活動していました。

島津斉彬

斉彬に仕える西郷と皇室・公卿と近しくあった月照とは、ともに勤皇の志を持つ者同士として深い親交を結んだのではなかったでしょうか。安政5年(1858)7月に島津斉彬が急死した時、西郷は殉死しようとしましたが、これを説得して止めたのは月照だったといいます。

死出の旅路

弟・信海に成就院を託して勤皇運動に奔走する月照は、すぐに幕府から追われることになってしまいました。追われる月照を何とか助けようとしたのが西郷だったのです。

西郷隆盛銅像(鹿児島市)

西郷は月照を薩摩へ連れて行き、かくまうことを考えます。幕府方に追われながらようやく月照は薩摩に到着しますが、斉彬の急死によって藩政が揺れている最中の薩摩藩は、幕府を敵に回すのを恐れて月照を「日向送り」にすることを命じました。

「日向送り」とは隣国の日向国との国境を越えたところで殺すことを意味します。そして、月照と西郷は日向へと向かう舟上で共に死ぬことを決意しました。月照はもはや殺されるしかない身。そして西郷は月照を助けられなかった自責の念に懊悩していたことでしょう。この時、西郷は31歳、月照は46歳でした。

薩摩藩と衆道

実は薩摩藩は、衆道が盛んだったことで知られています。井原西鶴「好色五人女」のうち、唯一ハッピーエンドの「恋の山源五兵衞物語」には、薩摩藩士・源五兵衛に熱烈に思いを寄せる娘・おまんが、源五兵衛を落とすために男装する場面があります。

また「局中しきりに男色流行つかまつり候」と書かれた新選組局長・近藤勇の書簡が残されていて、これも薩摩藩士が持ち込んだ流行だったといわれています。

薩摩藩の「郷中(ごじゅう)」という武士育成のための教育的役割を持つ青少年団体は、「稚児(ちご。元服前)」と「二才(にせ。元服後、妻帯するまで)」で構成されていますが、どうやらこの「郷中」が「旧幕時代から男色の本場と謳われ」(里見弴『極楽とんぼ』)る要因だったようです。

心中も厭わなかった月照と西郷の結びつきには、勤皇の同志であるとともに、それを超えた愛情があったのかも知れません。

清水寺・北総門(京都市)

清水寺・北総門は、かつて成就院の正門でした。門前には西郷が月照の17回忌に詠んだ漢詩を刻した石碑があります。一緒に死のうとした月照を思い、生き残った自分の申し訳なさ、悲しさを詠んだ詩です。

相約して淵に投ず後先無し
豈図らんや波上再生の縁
頭を回らせば十有余年の夢
空しく幽明を隔てて墓前に哭す

「互いに約束して海に身を投げたのは二人同時だった。思いもかけないことに自分だけが息を吹き返してしまった。思いを巡らせると(月照が死んでから)この十数年のことが夢のようだ。今はむなしくこの世とあの世に隔てられてしまい墓の前に慟哭するだけなのだ……」といった意味です。

西郷がこの詩を詠んだ時、世はすでに明治時代。幕府は倒れ日本は開国しました。月照の墓前で西郷の胸に去来した思いは、どのようなものだったのでしょうか。

(こまき)

参考文献
友松圓諦『月照』吉川弘文館
氏家幹人『武士道とエロス』講談社現代新書
里見弴『極楽とんぼ』

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