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【 兄・斉彬の遺志を継ぎ… 】薩摩の国父といわれた島津久光

1817年12月2日、幕末の薩摩藩に多大な影響を与えた「国父」島津久光が生まれました。彼は薩摩藩主でも島津家当主でもありませんでしたが、その力は絶大でした。そんな彼の人生を見ていきましょう。

藩主の五男坊が「国父」に

「どうにも西郷とは合わなかった島津久光」

「国学に通じ、頭脳明晰な人物だったという久光」

島津家27代当主・薩摩藩10代藩主、島津斉興の五男として生まれた久光には、当初から家督を継ぐ話はありませんでした。
そのため最初は家老・種子島久道の養子となり、次いで叔父の島津忠公の婿養子となります。元服後、当初は諱を忠教としましたが、今回は久光で統一します。

やがて、父と母・お由羅の方は久光を後継者にしたいと願うようになりました。そして、長兄・斉彬を支持する一派と対立するようになります。
斉彬派VS久光派の構図は「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動に発展。ついに幕府が介入して、藩主は斉彬となりました。
とはいえ、斉彬と久光の当人同士の仲はすこぶる良好だったようです。

藩主となった斉彬は名君の誉れ高く、蘭学を好み西洋文化に目を向けて殖産興業政策を推進しました。この時に西郷隆盛が斉彬に仕え、その考えに触れて心酔していきます。

「名君の誉れ高く、西郷が最も尊敬した島津斉彬」

「名君の誉れ高く、西郷が最も尊敬した島津斉彬」

ところが安政5(1858)年、斉彬は急死してしまいます。
遺言によって久光の子・忠徳(後に忠義)が藩主となったため、藩主の父として久光の権力は絶大なものとなり、島津宗家に復帰して「国父」の地位を得たのです。

亡き兄の遺志を継ぐも、西郷と確執あり

実権を握った久光は、小松清廉や大久保利通、西郷らを登用しました。
しかし、西郷からは「斉彬の時のようにうまくいきませんよ」と言われるなど、相性はよくありませんでした。

斉彬の公武合体運動(朝廷と幕藩体制の再編強化)を継いで京都へ赴いた久光は、尊皇派の志士が抱いた倒幕の希望に応えることなく、あくまで公武合体を推進していきます。この頃、自分の命で伏見に来た西郷が待機命令を破ったことなどにより、秩序を乱されるのを何よりも嫌う久光は激怒。西郷を捕らえて徳之島・沖永良部島へ流刑としてしまうのです。

「激動の人生を送った西郷隆盛」

「親戚を参考に想像で描写された西郷隆盛像」

公武合体の中心にいた久光は、幕政改革を求める朝廷からの勅使を護衛して江戸に向かいます。そして朝廷と幕府の交渉の席に付き、大きな影響力を及ぼしました。
この帰途、武蔵国生麦村において、藩士が行列を遮ったイギリス人を殺傷する生麦事件が起き、これが翌年の薩英戦争に発展してしまいます。

公武合体の挫折、新政府への不満

「公武合体の象徴として将軍・家茂に嫁いだ和宮」

「公武合体の象徴として将軍・家茂に嫁いだ和宮」

苦杯を嘗めた薩摩藩と久光ですが、朝廷の支持を得て会津藩と共に尊王攘夷派の長州藩を追放します。そして開かれた朝廷会議に久光が有力諸侯を参加させ、公武合体完成かと思われました。

ところがこの席で一橋慶喜と意見が対立し、公武合体は挫折してしまうのです。この間に、久光は西郷を赦免していました。しかしそれは久光の本意ではなかったようで、キセルの吸い口に歯形が残るほど苦々しいものだったようです。

公武合体の頓挫により久光は薩摩へ戻ります。
彼が公の場に現れたのは、慶応3(1867)年の四侯会議でした。松平春嶽・山内容堂・伊達宗城らと共に将軍・徳川慶喜と協議しますが意見が合わず、ここから薩摩藩ははっきりと討幕へ向かって行きます。
そして倒幕の密勅が下り、大政奉還が行われたのでした。

新政府の改革に対して、保守派の久光は不満を抱いていました。特に廃藩置県に反対しては、庭で一晩中花火を打ち上げ抗議を示したのです。
また、和装・帯刀・丁髷を終生やめることはなく、政府もこの大物の扱いには手を焼いたそうですよ。

西郷との不和から、悪役の印象が強い久光。
しかし彼は西郷が慕った斉彬の遺志を継ぎ、公武合体を夢見ていたのでした。彼なりの理想の実現に邁進した人生だったのですね。

(xiao)

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