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【森山崩れ】祖父も父も暗殺されていた!?徳川家康のファミリーヒストリー

徳川家最大の悲劇ともいえる「信康事件」。正室・築山殿と嫡男・信康を死なせてしまった徳川家康ですが、祖父は暗殺され、父の死にも暗殺説があるというのをご存知でしょうか。家康が幼い頃に今川氏へ人質に取られたのも、こうした悲劇が尾を引いていたからなのです。天文4年(1535)12月5日、祖父・松平清康が暗殺された「森山崩れ」を中心に、悲劇のファミリーヒストリーを見ていきましょう。

松平氏とは?

松平郷園地(愛知県豊田市)にある初代・松平親氏像。

家康は、徳川姓を名乗るまでは松平姓でした。元々、松平氏は清和源氏支流・新田源氏のさらに支流の世良田氏だったといわれています。上野国新田郡得川郷(群馬県太田市徳川町)を拠点とし、得川姓を名乗っていたようですが、その末裔の僧が松平郷(愛知県豊田市松平郷)に流れ着き、領主の松平氏の名跡を継いで、「松平親氏」を名乗ったとされています。

森山崩れ:松平清康の暗殺

松平清康
(随念寺蔵)

親氏を祖とする松平家の7代・清康は名君の誉れ高く、ほぼ三河を統一するまでに至りました。
さらに尾張をうかがいますが、その陣中で馬が暴れ出すという騒ぎが起きます。この時、清康は家臣の阿部正豊に斬られ、25歳の若さで亡くなってしまったのです。

これには遠因がありました。
正豊の父・定吉織田信秀との内通の噂を立てられており、以前から正豊は「何かあったら父の無実を訴えてくれ」といわれていたそうです。そして、陣中での騒ぎを父が成敗されたと思い込んだ正豊が、清康を斬ってしまったということなんですね。正豊はその場で殺されますが、定吉は清康の子・広忠に許されます。

この噂を流したのは、清康の叔父・信定だったともいわれています。信定はこの後、広忠を追放し、松平宗家を称しますが、家臣から賛同を得られませんでした。

広忠と織田の攻防:背後には今川の影

清康が亡くなった時、広忠はまだ10代前半でした。大叔父・信定に追放され放浪したともいわれていますが、伯父・信孝や正室の於大の方の兄・水野信元なども織田方に寝返るなど、家臣の分裂や織田信秀の侵攻に苦労し、今川義元の傘下に入りました。

その代償として、息子・竹千代家康)を人質に出すのですが、それを織田方に奪われてしまいます。それでも広忠は今川方に付く姿勢を変えず、天文7年(1548)の小豆坂の戦いでは太原雪斎を大将とする今川軍の支援を得て、織田軍を破りました。
その後の戦では織田信秀の庶子(信長の兄)・信広を捕虜とし、竹千代と交換して駿府へと送ります。

織田軍と広忠軍(というかほぼ今川軍)がぶつかった小豆坂古戦場の碑(愛知県岡崎市)。

このように、広忠は奮闘しましたが、結局、織田と今川のせめぎ合いの下に立たされ、苦境だらけの人生でした。

広忠の死:暗殺?病死?

竹千代を駿府に送って間もなくのこと。天文18年(1549)に、広忠もまた若くして亡くなってしまいました。
病死説、一揆による殺害説もありますが、岩松八弥(片目弥八)なる人物に殺害されたともいわれています。その岩松を成敗したのは、清康を暗殺した阿部正豊も成敗した植村氏明という説もあるんですよ。2代続けて主君の仇を取るとは・・・何とも数奇な運命です。

広忠の墓は、徳川家の菩提寺である大樹寺(写真)に加え、
大林寺、松応寺、法蔵寺、広忠寺と岡崎市だけで5つもある。

祖父と父が相次いで若い年齢で亡くなったことは、家康に警戒心を抱かせたのではないでしょうか。家康には影武者がいたという話もありますし、暗殺には警戒していたことでしょう。また、絶対に若死にしたくない思いから、健康志向へ走ったのかもしれませんよね。
そして、正室と嫡男を一度になくした経験は、彼をより慎重にしたのかもしれません。何せ、「鳴くまで待とう ホトトギス」の人ですから・・・。

さらに言えば、清康が生き永らえていたら、織田・今川との勢力図は変わっていたかもしれません。意外ともっと早く天下を取れたか、あるいは・・・。皆さんはどう考えますか?

(xiao)

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