鎌倉幕府の成立に貢献し、初代執権となった北条時政。むしろ「北条政子の父」という方がピンと来るかもしれません。武家政権を確立させたキーマンでありながら目立たない?存在、時政がどんな人物だったのか、改めて迫ってみたいと思います。
娘・政子と頼朝の結婚に大反対!
北条時政は桓武平氏の子孫とされていますが、詳しいことはわかっていません。祖父は北条時家で、保延4年(1138)に伊豆国の豪族の家に生まれたようです。
2番目の妻・牧の方の父親は平清盛の部下であり、その関係で時政は源頼朝の監視役となります。当時頼朝は、平治の乱で父・義朝らが清盛に敗れたため、伊豆に流罪となっていました。ところが娘の政子が頼朝と恋に落ちてしまいます。
北条家は平氏の部下であり、頼朝は敵である源氏の御曹司。まして頼朝はこのとき流人の身。当然、時政は二人の結婚に大反対しました。
しかし時政はやがて結婚を認め、頼朝を助けて共に平氏打倒に動くようになります。頼朝を知るにつれ、その才覚にひかれていったのかもしれませんし、娘可愛さで結婚を許したのかもしれません。また当時、都では平清盛と後白河法皇の対立が激しく、清盛の悪い噂もありました。そこから平氏の時代が長くは続かないと見ていたのかもしれませんね。
平家滅亡後は京都の治安維持に尽力
文治元年(1185)平氏は滅亡しますが、今度は源義経の謀反が起こります。
時政は頼朝に頼まれて京都に上がり、義経らを追うため守護・地頭の設置を認めさせると、自ら京都守護として都の治安維持や義経問題の処理などにあたりました。時政はわずか4カ月で京都の混乱を見事に治め、手腕を発揮します。頼朝もお義父さんのことが頼もしく思えたことでしょう。
権力欲しさに2代将軍・頼家を幽閉
そんな時政も正治元年(1199)、頼朝が亡くなってからは、無謀な行動に出るようになります。
頼朝の後を継いだ嫡子の頼家は、17歳とまだ若かったこともあり、時政を含む有力な御家人が合議して政治を進める「十三人の合議制」が行われることになりました。将軍の祖父である時政が力を持つのは当然ですが、権力を独占したいがためか、頼家の舅である比企能員との対立の末、建仁3年(1203)、時政は比企を謀殺します。
その後、頼家を修善寺に追放。頼家の弟で、当時12歳だった実朝を将軍に擁立、自宅に迎えて実権を握り、政所別当=執権に就任しました。翌年、頼家は北条氏の兵によって暗殺されてしまいます。
執権となった時政は、将軍はもちろんのこと、侍所別当で官位が上だった大江広元よりも権力をふるう様になります。
鎌倉幕府の成立を支えた時政ですが、やっていることは以前の権力者と変わらなかったというわけです。
後妻に頼まれ、実の孫より義理の息子を優先
さらに時政は、牧の方と共謀して実朝を廃位し、牧の方の娘婿である平賀朝雅を将軍にしようと諮ります。
政子や、のちの2代執権で次男の義時らが実朝を助け、大半の御家人も義時に味方したため失敗。牧の方ともども出家し、伊豆国で隠居させられることになりました。その後権力の座には戻れず、建保3年(1215)に亡くなります。
もともと平氏だった時政が、当時流人であった頼朝を後押ししたのは、やはり先見の明があったからでしょう。そうでなければ東国の一豪族に過ぎなかった北条家が権力を持ち、のちに続く武家政権を確立することもなかったかもしれません。
まさに歴史を変えた重要人物なのですが、残念なのは晩年がよろしくなかったこと。3代執権の北条泰時は、頼朝や政子は敬いましたが、時政の存在は謀反人として否定。また子孫からも、初代を義時として時政は祭祀から外されるなど、散々な扱いをされています。
しかし、牧の方の言うことなら実の孫より義理の息子を優先してしまうほど、彼女を愛していたのでしょう。頼朝に恋をして彼のもとに走った政子と、やはり似たもの親子なのかも!?しれません。
(編集部)
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