肥前国佐賀藩士・江藤新平は、幕末から明治維新にかけて活躍した志士のひとり。新政府樹立後は法整備を担う司法卿として、優秀な才能をいかんなく発揮しました。しかし、その人生は佐賀の乱で一転。彼は、自ら作った制度によって最期を迎えることとなったのです。そんな江藤新平の波乱の生涯を、彼の功績と佐賀の乱を交えてご紹介します。
「人智は空腹より出ずる」by江藤新平
天保5年(1834)に佐賀藩士の息子として生まれた新平は、藩校・弘道館に入学すると優秀な成績を修めます。しかし、父の職務怠慢と解職により、生活はかなり苦しいものでした。そんな中で、彼の口癖は「人智は空腹より出ずる」だったそうです。
弘道館以後は神道や尊皇思想に触れますが、欧米列強の開国要求など時世の流れと共に、開国の必要性に目覚めていきます。
やがてその思想は倒幕へと傾き、文久2年(1862)に脱藩、京都では桂小五郎などとも接触を持つようになります。脱藩は重罪でしたが、その才能を見込んだ藩主・鍋島直正によって蟄居処分とされ、その間、江藤は直正への献言を続けました。
大政奉還後に復帰を果たすと、江藤は副島種臣と共に新政府に加わります。江戸城開城の後、彼は「東西両都」の建白書を提出、江戸を東京として西の京都と共に拠点とすべしと説き、やがてその案が用いられ、江戸は東京となりました。
また戊辰戦争にも参加し、佐賀藩のアームストロング砲など最先端の重火器をもって彰義隊との上野戦争に勝利するなど、政治、軍事ともに大きな功績を挙げるのです。
新政府では司法制度の整備に尽力
新政府での江藤は、会計局判事から始まり、民政や財政などを担当しました。
特に司法制度の整備に尽力し、司法卿として、裁判所の建設や民法の編纂を行っています。ただ、急激な改革に財政が追い付かず、当時の大蔵省にいた井上馨とは確執が生まれました。さらに、井上の汚職を追及し辞職に追い込むなど、溝は相当深かったようです。
また、英仏を手本に三権分立を唱えますが、新政府ではプロイセン(のちのドイツ)における行政=司法の意見が根強く、保守派からは遠ざけられました。
佐賀の乱、勃発!
やがて新政府内では征韓論を巡って対立が起き、西郷隆盛や後藤象二郎、副島らと共に江藤は下野します。江藤は佐賀に戻ろうとしますが、それでは対立する大久保利通にとって彼を排除するいい口実になると、同じ佐賀藩出身の大隈重信らに説得を受けました。
しかし江藤はそれを聞かず佐賀に入り、征韓党の首領となってしまいます。当時佐賀には旧体制主義の憂国党もおり、両党は新政府への不満という点のみで一致したことから合流、旧士族の拠り所となっていったのです。
大久保にとってはまさに、江藤を排除する絶好の機会。憂国党が起こした争いから佐賀に鎮圧軍を派遣します。それに征韓・憂国党連合が抵抗したため、佐賀の乱となったのでした。
西郷に挙兵を頼むも断られ…
しかし、江藤は戦況不利と見るや、薩摩に逃亡。彼は西郷に会い、薩摩での挙兵を頼みましたが、断られてしまいました。
そして、今度は岩倉具視に話をしようと上京を試みましたが、すでに手配写真が出回っており、高知で捕らえられてしまいます。しかもその写真手配制度は、彼自身が制定したものだったのです。
その後、江藤は佐賀に戻され裁判で裁かれます。最期は首をさらされるという無残な扱いを受けたのでした…。
司法制度を確立し、三権分立を唱えるなど進んだ考えを持っていた江藤ですが、直情的な行動に出たのが彼の運命を狂わせました。思い込んだら一直線な所があったのかもしれません。しかも自分が作った制度の第一号となってしまうとは、なんとも皮肉なものです。
(xiao)
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