戦国時代の僧侶にはさまざまな役割がありました。戦勝を祈ったり戦死者を弔ったりすることはもちろん、知識人だったことから教育者の側面もあり、さらには大名間の和睦交渉なども行っていたのです。
安国寺恵瓊(あんこくじえけい)は、戦国時代に交渉人として活躍した僧侶の一人です。彼は毛利家の外交僧として活躍したのち、豊臣秀吉に召し抱えられました。しかし、その名前を知らない人も多いのではないでしょうか?
ここでは恵瓊の生まれや功績、残された逸話などについてご紹介します。
恵瓊の生まれから毛利家臣時代まで
そもそも恵瓊はなぜ毛利家の外交僧となったのでしょうか。その経緯について振り返ります。
安芸武田氏の滅亡により出家
恵瓊の生年や父については諸説ありますが、安芸武田氏の一族であることは確定とされています。天文10年(1541)毛利元就により安芸武田氏が滅亡すると、安国寺(不動院)に入って出家。その後は京都の東福寺に入り、臨済宗の僧・竺雲恵心(じくうんえしん)の弟子になりました。
天正2年(1574)には安国寺の住職になり、その後は東福寺や南禅寺の住職を経て、中央禅林最高の位につきます。建仁寺、方丈寺、霊仙寺の再興や、凌雲寺仏殿の安国寺への移築など、僧としてさまざまな功績を残しました。
毛利氏の外交僧となる
毛利家が恵心に帰依していたことがキッカケで、恵瓊は毛利家の外交僧になります。永禄11年(1568)に起こった大友家との合戦では、豪族らを毛利方の味方にする交渉で貢献。また元亀2年(1571)には将軍・足利義昭に対して大友家、浦上家、三好家との和議の斡旋を依頼し、大友、浦上との講和を成功させます。天正元年(1573)織田信長により将軍・義昭が京都を追放された際は、帰京を要請する会議に毛利家の使者として参加しました。
僧でありながら豊臣大名に!?
本能寺の変が起こった後の恵瓊は、秀吉の側近としても活躍しました。毛利家の外交僧だった彼はどのようにその地位を手に入れたのでしょうか。
毛利氏と秀吉の和睦を取りまとめる
天正10年(1582)毛利家と秀吉は備中高松城の戦いで対陣していました。この最中に本能寺の変によって信長が死去しましたが、秀吉はそれを隠して毛利氏に和睦案を提示。恵瓊はこれを取りまとめ、もし和睦できず毛利家が滅亡したときは、小早川秀包と吉川広家を秀吉の家臣に取り立てるよう願い出ます。交渉の甲斐あってか、毛利家の領国は無事に認められました。
このとき恵瓊は、秀吉の躍進を予測し、進んで和睦を取りまとめたとされています。この態度が秀吉の信任に繋がったのです。
6万石の秀吉近臣に上り詰める
天正13年(1585)毛利家の秀吉への臣従について交渉を担当した恵瓊は秀吉から賞賛されます。このころの彼はすでに秀吉の側近も兼ねており、四国征伐後には伊予国和気郡に2万3000石を与えられ、九州征伐後には6万石に加増と、僧でありながら豊臣大名という異例の位置づけでした。
その活躍は目覚ましく、九州征伐に先立ち黒田官兵衛らとともに大友家と毛利家の和睦を締結。秀吉による検地や厳島神社の作事の奉行を務めたほか、戦国武将としても小田原征伐や朝鮮出兵に参加して功績を残しています。
関ヶ原の戦いでの働きとは?
秀吉のもとで目覚ましい活躍を遂げた恵瓊ですが、やがて最期の瞬間が訪れます。関ヶ原の戦いで恵瓊はどのような働きをしたのでしょうか。
石田三成と通じ西軍として参加
恵瓊は毛利一族の中でも親秀吉派だった小早川隆景に近い存在で、秀吉が病に伏した際、隆景が死去すると毛利が軽視されると心配しました。この読みは的中し、自身も小早川家と並ぶ毛利家の支柱・吉川広家と対立します。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、懇意だった西軍の石田三成と通じ、毛利家当主・毛利輝元を西軍総大将として担ぎ出すことに成功。合戦で毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に陣取りますが、前に布陣していた広家が家康に内通しており毛利軍の参戦を阻止しました。そのため恵瓊は、戦闘に参加できずに終わってしまいます。
逃亡するも斬首される
西軍の敗北後、毛利本家の陣に赴いた恵瓊は広家に諭され逃亡。鞍馬寺や本願寺に匿われ息をひそめましたが、敵将・鳥居信商に捕縛され家康の陣所に送られます。
その後、恵瓊は六条河原で斬首され、三成、小西行長とともにさらし首に処せられました。
交渉手腕に長けた恵瓊の逸話
さまざまな交渉に尽力した恵瓊はどんな人物だったのでしょうか。ここでは彼にまつわるエピソードをご紹介します。
天下を予見する慧眼の持ち主だった
信長の上洛前から毛利家の外交僧として活躍していた恵瓊。彼は信長の突然の死や秀吉の躍進を予見しており、その読みが見事に的中したことからすぐれた眼力の持ち主といわれています。
『太閤記』には、無名時代の秀吉に「将来天下を取る相がある」と言い、のちに天下人となった秀吉から領地を与えられる描写があります。
恵瓊はなぜ斬首されたのか?
関ヶ原の戦いで戦闘に参加しなかったにもかかわらず斬首された恵瓊。その理由は、恵瓊も西軍の首脳の1人とみなされたからだったようです。
彼は輝元を西軍総大将として担ぎ出しましたが、この功績こそが彼を死に至らしめました。毛利家からの助命の嘆願はなかったため、恵瓊はいざとなれば切り捨てられる存在だったとも考えられます。
戦国一の寝業師だった
弁舌や調略でうまく交渉を重ね、戦国の世を渡り歩いた恵瓊。彼には先見の明がありましたが、斬首という自分の最期までは予見できなかったようです。
大名になったかどうかについては諸説あるものの、秀吉の近臣として取り立てられたことは確かでした。もし逃亡という道を選ばずに家康との交渉をうまく進めていたら、関ヶ原の戦い後も家康のもとで活躍していたかもしれませんね。
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