男性が戦場で命がけの戦いを繰り広げていたように、女性もまた家の中で熾烈なバトルに身を投じていました。特に正室と側室の間では、やはり感情的にもしっくりこないことが多かったようです。時に、戦場よりも怖い戦いもあり・・・今回は、そんな正室と側室の修羅場なお話を紹介したいと思います。
大奥のスキャンダルの裏にあった熾烈な戦い:天英院VS月光院
天英院は江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室で、月光院は側室でした。
当初、家宣は甲府藩主・徳川綱豊として天英院と仲睦まじく生活していました。ところが、6代将軍に選ばれて江戸城に入り「家宣」となってから、その関係は一変します。30歳を過ぎていた天英院は「おしとね御免」により夜の相手ができなくなってしまうのです。
家宣は側室である月光院を寵愛するようになり、やがて男子が生まれました。これが7代将軍となる家継です。家宣が没すると、月光院は将軍の生母として天英院をしのぐ権勢を誇るようになりました。
しかし、ここで大奥史上最大のスキャンダル・絵島生島事件が起こります。月光院の腹心である絵島が、歌舞伎役者の生島新五郎と良からぬ関係を結んだというものです。
これは、天英院側にとって絶好のチャンスでした。
天英院は、月光院の力を削ぎ、側用人である間部詮房も追い落とします。2年後に家継が夭折すると、8代将軍を選ぶに当たって大きな発言力を持ったのでした。そして、紀伊家から吉宗が選ばれたのです。
天英院と月光院の力関係は完全に逆転したのでした。
家ごとぶっ壊してやる!:北条政子VS亀の前
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝がまだ伊豆に流刑となっている頃のこと、彼は亀の前という女性を寵愛していました。すでに彼は北条政子を正室としていましたが、鎌倉まで呼び寄せるほど亀の前を気に入っていたのです。
頼朝は政子をはばかり亀の前を少し遠くに移しましたが、それでも寵愛は変わりません。やがて、それが政子の耳に入ってしまいます。
激怒した政子は、なんと亀の前の住む館を破壊させてしまったのです。
亀の前は命からがら逃げだし無事でしたが、今度は頼朝が怒り、館を破壊した者の髻を切ってしまいました。
当時、髻を切られるのは武士にとって最大の恥辱です。
すると、その主だった政子の父・北条時政が怒って一族郎党ともども伊豆へ引き揚げてしまうという事態になったのです。
とはいえ、頼朝の亀の前への寵愛は変わらなかったそうです。しかし政子、超コワイ・・・。
その盃こっちへ寄越しなさいよ!:淀殿VS松の丸殿
豊臣秀吉に愛された女性の中でも、北政所こと寧々に次ぐ地位にいた2人の女性・淀殿と松の丸殿。
秀吉が催した醍醐の花見の際に、そのバトルは勃発しました。
北政所の次に誰が盃を受けるかというところで、淀殿と松の丸殿は「私!」とお互い譲らなかったというのです。花見の時の輿の順番は、①北政所 ②淀殿 ③松の丸殿 の順でしたが、松の丸殿の生家である京極家は、淀殿の浅井家の主筋に当たりました。
この戦いは、前田利家の正室・まつが間に入ることで収まりましたが、秀吉はヒヤヒヤしたんじゃないでしょうかね。
妾ともその子とも上手くやっていたけど…勝民子
勝海舟には、苦しい時代からの糟糠の妻・民子がいました。
しかし勝は次々と妾を作り、なんと民子のいる本宅に妾とその子供まで住まわせるようになりました。
民子は妾たちとも仲良くし、子供たちを可愛がります。「おたみさま」と呼ばれて慕われたそうですよ。
ところが臨終間際、民子は「勝のそばには埋めてくれるな」と言い残します。
やっぱり、我慢していたんですね・・・。
どちらかというと、立場の違いもありますし、正室から側室への嫉妬の方が多かったようですね。
後継ぎをもうけるために側室を持たざるを得ない家もあったでしょうから、これを収める夫の立場もなかなか苦しかったことでしょう。しかし、いつの時代も女は怖いですね(笑)
(xiao)
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