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第1回「明治維新150年、西郷隆盛に現代を生きるヒントを学ぶ」【松平定知が語る明治維新150年 ~その時 日本が動いた~】

武家政権を終わらせ、近代の扉を開いた「明治維新」から今年で150年。これを記念し、「その時歴史が動いた」の司会などで知られる松平定知氏による全4回の新連載がスタート。題して「松平定知が語る明治維新150年 ~その時 日本が動いた~」!第1回のテーマは2018年大河ドラマの主人公である「西郷隆盛」です。

西郷隆盛の人生には失敗がつきもの
その悲劇性が庶民の人気を呼んだ

2018年は、明治維新(明治改元)からちょうど150年目となる。それにちなんで、NHKの大河ドラマでは『西郷どん』を、チャンネル銀河では『翔ぶが如く』を放送中だ。それらの主人公である西郷隆盛は、薩長同盟を結んで倒幕に舵を切り、江戸城を無血開城した明治維新最大の功労者のひとりとして今なお絶大な人気を誇っている。とくに鹿児島県内における西郷さんの人気の高さには目を見張るものがあり、私も実際に現地を訪れてみたが、行く先々で数えきれないくらい西郷さん関連の像や看板を見かけた。

そんな西郷さんの人気の理由ひとつは、「お金・地位」に執着しないという点にある。私利私欲に走らない西郷さんは、自分の命でさえ執着しない。西郷さんは人生において何回か死にかけている。たとえば、主君の島津斉彬が死んだときには殉死しようとした。このときは京都の清水寺成就院の僧・月照の必死の説得で思い止まったが、その月照が安政の大獄で大老・井伊直弼に追い詰められた際は鹿児島にかくまった。しかし幕府の厳しい追及に、もはやこれまでと、ふたりして錦江湾に身を投げた。月照は死んだが、西郷さんは引きあげられた。

その事後処理に西郷さんは奄美大島に行かされたが、薩摩へ召還後、すぐに国父・島津久光の勘気を買い、今度は奄美大島よりも遠い、徳之島、さらに沖永良部島へ罪人として行かされるのである。沖永良部島における風雨吹きさらしの衛生環境劣悪の牢屋での日々は、健康的には死んだも同然のありさまだった。また、あの勝ち目のない西南戦争に身を投じたのも、ある意味「自殺未遂」でもあろう。

西郷隆盛終焉の地(鹿児島市城山町)

出世もお金も命もいらないという「無欲の西郷さん」のもうひとつの人気の秘密は、失敗が多いということかもしれない。実際、西郷さんが主導した「政治プログラム」で成功した例はほとんどない。あの有名な薩長同盟は、その中心人物はやはり坂本龍馬であるし、江戸城の無血開城は勝海舟とイギリス公使パークスの存在抜きにしては語れない。維新後の明治新政府で朝鮮への使節派遣をめぐっての論争に敗れて下野したり、最後は「負けを覚悟」の西南戦争に突入していったりという具合に、「仕掛けはするのだが、それが必ずしも成功に結びつかない点」や「快刀乱麻にバッタバッタと諸問題をものの見事に解決していく政治家ではない点」がまた、庶民の心の琴線にふれる部分なのである。判官びいきの日本人には、「一生懸命やるのだが、なかなかうまくいかない人」を応援する精神構造もあるのである。

銅像の台座の文字にまで表れる
西郷を死なせた大久保への反感

西郷さんの明治新政府での功績は、陸軍の基礎を整備したことである。殖産興業などの経済面を大久保利通が、憲法整備などの行政面を木戸孝允が、富国強兵などの軍事面を西郷さんが担ったかたちだ。それが「維新の三傑」と称されるゆえんであり、彼らの非凡なところは、それぞれが自分の持ち分をわきまえていたことである。

ところが西郷さんは、朝鮮への使節派遣をめぐる論争では幼いころからの親友だった大久保によって失脚させられ、西南戦争では自分で整備した政府軍によって死に追い詰められてしまう。どちらも歴史の皮肉としか言いようがない。

愛すべき西郷さんを死に追いやってしまった大久保のことを許せないと思う薩摩人は多いと聞く。そのためなのか、西郷さんの像に比べて、大久保の像は少ない。鹿児島での大久保の像は、甲突川に架かる高見橋の東詰のものくらいしか思い浮かばない。フロックコートを風になびかせ、颯爽と前方を見据えるこの銅像の台座には「大久保利通像」と刻まれている。興味深いことに、よく見るとその文字が一列ではないのだ。つまり、「大久保利」までと、その下に続く「通像」の文字が、明らかに意図的にズレているのである。

ある方が、昔は目上の人に手紙を書く場合、差出人の署名は少しズラして書く習慣があったので、これもその「へりくだり」の意味があるのかもしれないと説明してくださった。もし、そうだとするならば、じゃあいったい誰が、何に対して「へりくだった」のか。ただ、この像が建てられたのは昭和54年(1979)で、ちょうど大久保の没後100周年にあたり、当時は除幕式の前後1週間は暴漢に像が壊されやしないかと24時間体制で警備したのだという。このエピソードが、それを解くカギのひとつになるのかもしれない。

大久保利通像。よく見ると「通像」の文字が少しズレている。

写真を残さなかった西郷
肖像画はまあまあ似ていた!?

西郷さんの写真は1枚もない。よく見かける肖像画は、明治新政府が招いたイタリアの版画家・キヨソーネが描いたもので、いわゆる「想像画」である。上半分が弟の西郷従道を、下半分がいとこの大山巌を参考にして描いたという。この絵に関しては、完成品を目にした妻の糸さんは「そんなもんだろう」と言ったそうだ。一方、大河ドラマ『西郷どん』の冒頭でも紹介された有名なエピソード、上野の銅像に関しては、その除幕式のときに「あれは主人ではない」と言ったといわれている。「あんなラフな着流し姿で外を歩かなかったよ。こんな姿が後世に残るのは恥ずかしい」という意味でそう言ったとされる。妻らしい発言だと思う。

西郷さんが写真を残さなかったのは、顔を覚えられて暗殺されないように用心したからという説もある。西郷さんの交渉は「至誠天に通ず」のようなところがあり、真心でいけば相手もわかるはずだと、単身で敵地へ乗りこんでいくスタンスが基本となっている。第一次長州征伐での講和交渉や江戸城の無血開城の交渉、自ら朝鮮への使節として赴くという「遣韓論」の方針などが代表例だ。そのため、無防備なときが多かったのも事実である。

西郷隆盛

キヨソーネによる西郷隆盛の肖像画

欲で動くと人はついてこない!
世のため人のために動く精神で

西郷さんは幕末から明治維新という激動の世に身を投じ、その中心となって活躍した。しかし、欲に執着しない西郷さんにとっては、権謀術数の渦巻く政治的な場面であくせくするよりは、山野で狩猟に明け暮れた生活を送ることのほうが人生の満足度は高かったのかもしれない。だから、隙あらば官職を離れて帰郷したのだと思う。

出世欲や金銭欲など、私利私欲がからむと人間はダメになる。「欲で動くのではなく、世のため人のために動く」、それが西郷さんの言う「敬天愛人」の精神である。明治維新を学び、西郷さんを知れば、現代を生きるヒントが見えてくるはずだ。

 

 

2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」完全読本(産経新聞出版)
大河ドラマ「西郷どん」を楽しく見るための必須ガイド本。出演者や原作者・林真理子さんらのインタビュー、歴史用語解説付きのストーリー紹介など、ドラマに関連した読み物や情報が盛りだくさんの一冊。元NHKアナウンサー松平定知さんの紀行文も読み応えたっぷりです。

『2018年NHK大河ドラマ「西郷どん」完全読本』(産経新聞出版)

 

 

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