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【 こちらも大河ドラマ化、熱望!! 】関東の覇者が「北条」を名乗った理由とは?

2020年の大河ドラマの主人公が明智光秀に決定したようだ。なるほど確かに、光秀は魅力的だし、主人公として知名度も申し分ない。しかし、2016年の『真田丸』、2017年の『おんな城主 直虎』など、直近の作品にも光秀は登場したばかり。彼の最大のハイライト「本能寺の変」だって、過去に10回以上も描かれている。筆者としては、どうにも新鮮味のない人選と感じてしまう。

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他にもっと、ふさわしい主人公候補がいるはずだ。たとえば、今回とり上げる小田原北条氏(後北条氏)。初代・早雲にしても氏康にしても、これまで幾度も主役に推されているのは間違いない。ついぞ実現しないのは、なぜなのだろう? と首をかしげたくなる。

さて、関東の覇者・北条氏は、天正18年(1590)、天下統一を達成した豊臣秀吉に最後まで頑強に抵抗。名城・小田原を拠点に約100年、5代にわたって栄えた、戦国時代屈指の勢力を誇る大大名家だった。上の系図に示した通り、近隣の強豪・今川家や武田家との政略結婚を有効に使ったこともその繁栄の一因だ。この三家の同盟や勢力争いは、俗に「関東三国志」とも呼ばれる。

北条家には、魅力的な女性も多いはず

北条家ゆかりの人物には、NHKが主要キャストに選ぶ傾向にある女性の登場人物も少なくはない。早雲の姉で今川家に嫁いだ「北川殿」の存在は面白いし、北条氏政(4代目)の妻・黄梅院(おうばいいん)は、武田信玄の娘だ。3代・氏康の娘で今川氏真に嫁いだ早川殿(はやかわどの)は、『おんな城主 直虎』に「春」という名で登場(演:西原亜希)。テレビゲーム『戦国無双』シリーズ(コーエーテクモゲームス)でも、人気の高いキャラクターである。また、『のぼうの城』で描かれた忍城の戦いには、北条家臣の娘・甲斐姫(かいひめ)が登場した。

これだけを見ても、充分に大河ドラマの主役となるだけの魅力を秘めているように感じられるのだが・・・。考えていても仕方がないので、本題に入ろう。

この一族は最初から「北条」だったわけではなく、もともとは「伊勢」という名字を名乗っていた。特に初代・早雲の本当の名は伊勢宗瑞(いせ・そうずい)で、亡くなったときもその名前だった。「北条早雲」という名前が知れ渡るのは死後のことで、実際に北条の姓を名乗ったのは、2代目・氏綱(うじつな)から。また、早雲は伊豆を拠点に活動していたが、相模・小田原城を本拠地としたのも、氏綱の代からである。

200年ほど前に滅びた「北条」姓復活の理由は?

氏綱は、なぜ北条姓を名乗ったのか。それは前北条氏、つまり平安・鎌倉時代に活躍した北条氏と同じ姓を名乗ることで、「関東支配の正当性を示した」という説が有力。しかし、前北条氏は当時としても、すでに200年ほど前に滅亡したはずの家だ。それほどまで「北条」にこだわる必然性はあったのだろうか?

その疑問を解くには、「前北条氏」のことに少し詳しく触れておく必要があるだろう。前北条氏は、伊豆出身の豪族。出世後は鎌倉幕府の「執権職」つまり最高責任者を務めた一族のことだ。一族の初代は、あの北条政子の父親・北条時政(ときまさ)である。時政は源頼朝が「平治の乱」で敗れ、伊豆に流されたあと、平清盛の命令で、その監視役を務めた。伊豆の韮山あたりに北条という地名があり、彼はその在地領主であったことから「北条」を称していた。

時政は、娘の政子が頼朝と恋仲になり、その妻になったことで、自身も頼朝の後援者になってしまったといわれる。頼朝の将来性に目をつけたとする普通の政略結婚だったという説もあるが、いずれにしろ、この結婚がその後の北条家の繁栄を決定づけた。戦国時代の「後北条家」も、これがなければ誕生していなかったはずである。

源頼朝が征夷大将軍となって創立された鎌倉幕府だが、源氏の将軍は、3代将軍・源実朝が暗殺されたことによって、すぐに途絶える。その後は摂関家の藤原氏や皇族から迎えられた、年若き人物が就任した。いずれも子供ばかりで、実際に政治を動かしていたのは執権職の北条氏だった。

8代目をピークに、勢力を失った前北条氏

そのピークは、なんといっても第8代・北条時宗の時代(1268~1284年)だろう。あの二度にわたる蒙古襲来(元寇)を退けた手腕は、現代でも評価する声が高い。時宗をはじめとする前北条氏は、間違いなく源氏や天皇家を凌駕する鎌倉時代の天下人だった。この執権政治、いわば事実上の「北条幕府」は、実に16代130年も続いた。

だが、何ごとにも終わりは訪れる。元弘3年(1333)2月、配流先の隠岐島を抜け出した後醍醐天皇が、足利尊氏や新田義貞を味方につけて「討幕」の兵を起こした。当時、御家人たちの支持を失い、斜陽にあった鎌倉幕府、つまり北条氏の軍勢は各地で敗退する。

同年5月、ついに鎌倉が陥落する。同18日に16代執権・北条守時と、子の益時らは洲崎(現在の神奈川県鎌倉市深沢)で新田義貞の軍に敗れて自害。そして、隠居の身として最後まで政権を握っていた北条高時(14代執権)も、現在の鶴岡八幡宮の東にある祇園山の東勝寺(とうしょうじ)に追い詰められ、同月22日に腹を切って果てた。7月には、捕らわれていた一族の残党、北条治時たちも京都阿弥陀寺で処刑される。こうして執権・北条氏は滅亡してしまったのだ。

ところが、北条氏はしぶとかった。完全には滅亡していなかった。幕府滅亡後、「建武の新政」が起き、また足利尊氏の天下となってからも、北条氏の残党は各地で反乱を起こし続けたのだ。

執権・北条高時の遺児が、執念で鎌倉を奪回!!

1335年、北条高時の弟・泰家は密かに京都に潜伏しており、挙兵を企てるも失敗。しかし、逃げ延びて各地の北条残党に挙兵を呼び掛けた。これに応え、信濃に潜んでいた高時の子・北条時行(ときゆき)らが挙兵、地元の豪族を味方につけて鎌倉を奪還してしまったのだ。これが「北条幕府」の再興を狙った「中先代の乱」(なかせんだいのらん)である。

この反乱劇は、すぐさま駆け付けた足利尊氏に討伐され、時行らは鎌倉を捨てて逃げた。しかし、この乱がきっかけで、尊氏は後醍醐天皇方の南朝から離反し、その後の動乱「南北朝時代」の幕開けにつながるのだ。

鎌倉幕府の再興は果たせなかったが、北条時行は後醍醐天皇の許しを得て南朝に帰参。南朝方の武将として、「反・足利」の旗を掲げて各地で転戦。足利の内紛による「観応の擾乱」(かんのうの じょうらん)が起きた直後の1352年には、なんと鎌倉を再奪還することにも成功するが、またすぐに敗れて逃走している。

通説によれば、時行の抵抗もここまで。正平8年(1353)5月20日に鎌倉・龍ノ口で処刑されたという。しかし、『園太暦』『難太平記』といった同時代の記録には時行はなおも逃れたとあり、その後は行方知れずとなった。生死定かでない時行、北条の影は、おそらく足利政権を樹立したばかりの尊氏を脅かし続けたであろう。

室町時代になっても、北条氏の血は生きていた

いや、それどころではない。すでに足利家には「北条家の血」が、流れ込んでいたのだ。実は、最後の執権・北条守時の妹・赤橋登子(あかはし とうし)は、足利尊氏がまだ鎌倉幕府の御家人を務めていたころ、彼に嫁いだ女性だ。登子の出身である赤橋家は、北条宗家に次ぐ家格を持った一門であった。

登子はその後、「大方殿」と呼ばれ、将軍の御台所として足利幕府の中で重んじられ、第2代将軍・足利義詮(よしあきら)と、初代・鎌倉公方(くぼう)の足利基氏を産んでいる。つまり、その後も15代にわたって続く足利将軍家、および鎌倉公方の家には、前北条家の血が流れていたのである。

ここで注目したいのが、鎌倉公方である。これは京の幕府が関東に置いた出張機関で、当初はその権力を後ろ盾に関東十カ国を支配した。だが、次第に幕府との対立が起き、さらには補佐役の関東管領(上杉家)との争いで、権力を著しく衰退させていく。この争いが、関東へと進出した伊勢氏(早雲)らの台頭のきっかけとなるのだ。

「伊勢」は伊勢国(三重県)から起こって、西国では名門として知られたが、関東では「よそ者」に過ぎない。そこで当代に関東管領職を継いでいた上杉家(山内・扇谷)にとって代わって関東の支配者となるべく、「北条」を名乗ったという。そして後北条氏は執権北条氏が名乗っていた「左京大夫」「相模守」を名乗り、その権威を生かして関東の覇者となったのだ。

どうして氏綱は北条を名乗れたのか?

しかし、疑問も湧いてくる。確かに下剋上、実力主義の世とはいえ、何の大義名分もなく北条を名乗って、周りの豪族が納得したのかどうかだ。

この鍵を握るのが、氏綱の妻・養珠院(ようじゅいん)という女性である。彼女のことを、「横江北条相模守女」と記す記録が存在しているが、この「横江」とは、「中先代の乱」を起こした北条時行の次男の子・北条時任(ときとう)が愛知郡横江村に逃れたことから、「横江北条家」となり、やがて「横井」と名乗るに至った家。

この末裔に、同郷の尾張の戦国武将・平野長泰や、後北条氏に仕えた板部岡江雪斎(いたべおか・こうせつさい)、幕末の思想家(熊本藩士)で福井藩の政治顧問を務めた横井小楠などがいる。

そして養珠院は、後北条家の3代目・北条氏康を産んだ。氏康は冒頭に載せたように、同時代に現れた武田信玄や今川義元と堂々渡り合い、関東管領となった上杉謙信の小田原城攻めをも防いだ。関東に覇を唱えんとした、北条時行の宿願は足利氏が勢力を衰えさせた戦国時代において、ついに果たされたのかもしれない。

その宿願も、秀吉の「小田原攻め」によって後北条氏は滅亡し、潰えた。・・・ように思われるが、やはり北条氏はしぶとかった。小田原開城後、5代目・氏直は高野山で没したが、その従弟の北条氏盛(氏規の長男)が、関ヶ原の戦いの後、1万1千石の大名として返り咲く。

12代・河内狭山藩主の北条氏恭(うじゆき)。大名として返り咲いた北条家の末裔だ。

北条宗家は河内(大阪)狭山藩主として12代にわたり、幕末まで存続したのだ。同じく、尾張に逃れた時行の次男から続く横井氏も代々、幕末まで尾張徳川家に仕え、子孫を残した。前北条家の北条時行の血は、後北条家が滅びた後も受け継がれ、現代にも息づいている。前後北条、恐るべし、といえよう。

【文:上永哲矢】

※姓の表記は「北條」が正しいとされますが、本記事中では一般への通りが良い略字の「北条」を使用しています。
※参考文献:『北条五代記』(勉誠出版)、『戦国北条氏五代』『伊勢宗瑞論』(黒田基樹)

 

第54回「北條五代祭り」開催! 2018年5月3日、小田原城周辺にて

5月3日の市中パレードには、俳優で小田原ふるさと大使の合田雅吏さんが北条早雲役、俳優の高嶋政伸さんが北条氏政役で出演します。詳しくは公式サイトへ!

第54回小田原北條五代祭り
開催日:2018年5月3日(木・祝)
開催場所:小田原城址公園銅門広場ほか
お問い合わせHP:小田原北條五代祭り
http://www.odawara-kankou.com/houjyou/

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