北海道は、2018年に命名150年を迎えました。これを記念し、「ほっかいどう百年物語」という番組でこれまで数多くの北海道の偉人たちを紹介してきたSTVラジオによる連載企画がスタート。第3弾は、島義勇の後任として札幌の2代目開拓使判官に就任した岩村通俊(いわむらみちとし)です。
岩村通俊は土佐出身で島義勇の後任として、2代目の開拓使判官に就任しました。現在のすすきののもとを築いたのも、岩村の大胆な行政のひとつだったのです。
開拓判官として札幌建設に挑む
土佐出身の岩村通俊は、明治2年開拓使新設に伴い、東京に妻子を残し、29歳で北海道開拓判官として函館に赴任。明治4年には、島義勇の大事業を引き継いで札幌にやって来ました。しかし、岩村は予算の使いすぎで解任になった島義勇を教訓に、予算難を理由にすぐには札幌建設に手をつけようとはしませんでした。
当時は新聞もラジオもない時代、ニュースは人の口から聞くしかありません。東京の情報が、正確に北海道へ伝わるには半年も一年もかかっていたそうです。しかし、利益にさとい商人たちは、札幌が北海道開拓の首都になるらしいことをどこからか聞きつけて、全国から集まってきました。ところが、せっかく来ても街も何もない、と皆失望しましたが、少し様子を見ているとさらに次々と商人が集まってくる。するとそのうち商人のための宿屋が建ち、続いて飲み屋ができた。風呂屋まで出来て、それらは大繁盛したそうです。
こうなると勢いがつき、雑貨屋、呉服屋、茶屋が次々と並びました。そんな状況を見ていた岩村は、札幌首都建設に着手しようと決めたのです。
まず、建設工事の能率を高めるため、岩村は函館時代からの知り合いで五稜郭の建築を請け負った、中川源左衛門を大工棟梁に置き、彼を通じて函館、東京などから千数百人を集めて作業にあたりました。
次に区画を整えるにあたっては、市街地を4キロ四方とし、道幅も細く設定しました。さらに、通りの命名も、当初は今の駅前通を小樽通りと名づけていましたが、京都にならって人々にわかりやすく、条・丁目と改めたそうです。
こうして、岩村は着々と事業をこなしていきましたが、ここにきてひとつの難題にぶつかりました。
それは、当時辺りに棲息していた熊よりやっかいだと言われた家事でした。住民が住む粗末な草小屋は、薪をたいて暖をとることによって、草葺き屋根に燃え移ってしまい、それが大火事につながることも少なくなかったのです。
岩村は開拓者たちに、「お金を貸すから燃えづらい家を建てなさい」と提案しましたが、誰一人その命令に従おうとはしませんでした。そこで明治5年、岩村は「草小屋を取り除く」というお触書を出した後、退官覚悟で、御用火事(ごようかじ)と呼ばれる放火を決行しました。まず、官庁にあった草小屋を模範的に焼き払い、それから民家を全て焼き払うという強行手段に出たのです。
触書をしたとはいえあまりの突然のことに、住民の中には、家財道具を持ち出す前に焼き払われてしまった人もいたり、草小屋の前に急きょ板を立てかけて、草小屋を見せないようにして、難を逃れた家もあったそうです。
岩村がまわりの非難を振り払ってでも行った、この御用火事によって、街並みもきれいに整えられ、火事などの災害はほとんどなくなりました。延焼を防ぐ目的で札幌で初めての消防隊が誕生したのも、この御用火事がきっかけだといいます。
すすきのに遊郭を作る
こうして札幌の開発は急速に進み、岩村は次の事業に取りかかりました。それは、土木作業者のために北海道で初めての官庁公認の遊郭を、すすきのに設けることでした。元々岩村は、大胆な行政を行う人物だと言われていましたが、この事業はさらに人々を驚かせたそうです。
当時の札幌の状況を、明治時代の新聞「札幌繁盛期」にはこう書かれています。「その頃の札幌は人家もまばら。ことに夜は寒い。人夫達はふるさとの地を思い出し、仕事も手につかず、一人逃げればまた一人姿を消す」と、職人たちの逃亡の事情を伝えています。
男の数が多かったため、毎日のように婦女暴行や人夫同士の暴力沙汰が起こり、札幌の治安は手のつけられない状態にありました。岩村はこのような様子を見て、大切な労働者をこのままにしておけないと悩んだあげく、彼らに国の税金を使って娯楽の場を与えることを思いついたのです。
岩村は開拓監事である薄井龍之(うすいたつゆき)に、200メートル四方で歓楽地を作らせ、薄井の名を一字とって、「薄野遊郭(すすきのゆうかく)」と名づけました。東京から芸者数十名がこのすすきのに呼び寄せられ、殺風景だった札幌の街並みが、一気に華やかになったのです。すすきのには労働者だけでなく、高級官僚も多く訪れたため、今でいう官官接待も頻繁に行われていました。こうして、岩村も含め、男たちに生活の潤いが出来たため、治安も安定するようになりました。
北海道を愛し続けた男
札幌の建設を着工してようやく軌道に乗り始めた明治6年、岩村は突然辞職させられてしまいました。原因は、開拓長官の黒田清隆との衝突でした。元々性格の合わなかった彼らは、ことごとく意見が衝突し、ついに岩村は東京へ帰されてしまったのです。
しかし明治19年、北海道庁が置かれると、岩村は北海道庁初代長官に就任。赤レンガ庁舎を建設し、産業の復興、交通網整備に努めました。
大正4年、76歳で亡くなるまで北海道を愛し、北海道のために努めた岩村通俊。強引で大胆な行政を行った結果、実質的に北海道の礎を築いたのは彼であると言っても、間違いありません。
(出典:「ほっかいどう百年物語」中西出版)
STVラジオ「ほっかいどう百年物語」
私達の住む北海道は、大きく広がる山林や寒気の厳しい長い冬、流氷の押し寄せる海岸など、厳しい自然条件の中で、先住民族であるアイヌ民族や北方開発を目指す日本人によって拓かれた大地です。その歴史は壮絶な人間ドラマの連続でした。この番組では、21世紀の北海道の指針を探るべく、ロマンに満ちた郷土の歴史をご紹介しています。 毎週日曜 9:00~9:30 放送中。
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