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【6月3日ペリー来日】黒船来航に揺れた浦賀!国民と幕府の反応

【6月3日ペリー来日】黒船来航に揺れた浦賀!国民と幕府の反応

嘉永6年(1853)6月3日、浦賀沖にアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督率いる軍艦4隻が突然姿を現しました。黒塗りの船体と煙突から上がる黒い煙を見て、当時の日本人はこれを「黒船」と呼びます。ペリーの目的は日本の開国でした。結果的に開国を受け入れた幕府の対応に不満をもった武士たちの間では攘夷思想が広まり、やがて日本は激動の幕末へと突き進んでいくことになります。今回は、明治維新のきっかけとも言われるペリー来航についてご紹介します。

ペリー来航の目的とは

ペリーの肖像
マシュー・ペリー提督の肖像。

ペリーは第13代大統領ミラード・フィルモアの開国交渉開始要請の国書を携えて、浦賀に入港しました。なぜアメリカは軍艦を4隻も派遣してまで、極東の小さな島国である日本に開港を迫る必要性があったのでしょうか。

諸外国とアメリカの情勢

1830年代に西ヨーロッパで始まった産業革命は、またたく間に欧米諸国の経済を発展させました。各国は産業革命によって大量生産されるようになった工業製品の市場とその原料の確保を目指し、アジアへの進出を進めます。インドや東南アジアなどの市場はイギリスが圧倒的に優勢で、そこにフランスが続く中、アメリカは大きな遅れを取っていたのです。そこで目を付けられたのが、太平洋を挟んで西に位置する日本でした。

計画的だったペリーの来航

ミシシッピ号
浦賀に入港した蒸気外輪フリゲート艦のミシシッピ号。

ペリーは開国要求任務が与えられる1年前にすでに日本遠征の具体的な計画を練っています。
その中身は、

  • 任務成功のためには蒸気船を目の前に突き付け、産業先進国の軍事力を見せつける必要がある(このため大型の蒸気軍艦3隻を含む4隻の軍艦が必要である)
  • 日本人との交渉は清国との交渉と同様に、恐怖や恫喝をもってあたる方が効果的である
  • 日本で最も開かれた港である長崎は、既得権を持つオランダの妨害が予想されるため交渉場所とはしない

というものでした。
正式に日本への開国要求任務を与えられた後、13隻による大艦隊の編成を要求し、来航する場所を江戸に近い浦賀にしたのも、こうした計画をもっていたからだったのです。

日本への要求とは

ペリーが大統領から渡された国書には、交易の開始、アメリカ船への石炭・食糧の供給、漂流民の救助、が要求として書かれていました。
アメリカが日本への寄港を必要としたのは、当時潤滑油やランプの燃料として使用されていたマッコウクジラの鯨油採取のためです。好漁場である小笠原諸島や伊豆諸島に1年以上の航海の末にやって来るため、どうしても大量の薪や水・食料が必要でした。また、当時アメリカが力を入れ始めていた清との貿易における中継地点としても、日本は格好の候補地だったのです。

日本国民の反応と徳川幕府の対応

ペリー上陸記念碑
現在の神奈川県、久里浜にあるペリー上陸記念碑。

浦賀には蒸気船を一目見ようと多くの人が集まってきました。当初は興味本意で蒸気船に小舟で近づいたり、中には乗船を試みたりする者まで現れましたが、幕府の注意喚起と実弾砲撃のうわさが流れたため民衆の間には不安な空気が流れ始めます。

空砲で江戸は大混乱?庶民の反応

黒船の話題が浦賀から江戸まで瞬く間に駆け抜けていく中、号令や合図として数十発の空砲が放たれました。事前に幕府に発射通告はされており、江戸市民にもその旨が伝えられていましたが、最初の空砲の音に江戸の町は大混乱。しかし、空砲であることがわかると市民はこの音を花火がわりに楽しんだといいます。庶民の間では、黒船来航時の様子を詠んだ狂歌も話題になりました。
「泰平の眠りを覚ます上喜撰(じょうきせん)たつた四杯で夜も眠れず」
上喜撰とは高級緑茶の銘柄のこと。当時は船を「1杯、2杯…」と数えたことから「4杯の高級緑茶を飲んだだけで夜も寝られないほどになる」という意味と「4隻の黒船が来ただけで夜も寝られないほど、国内が大騒ぎになっている」という裏の意味とをかけて揶揄しています。意外にも呑気な庶民の様子がうかがえますね。

幕府の対応とその後の動き

幕府は浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、大統領国書を将軍に手渡すことがアメリカ側の第一目的と把握しましたが、ペリーは中島の階級が低すぎるとして国書を渡すことを拒否。幕府は翌日も与力の香山栄左衛門を浦賀奉行と称させて交渉にあたったものの失敗に終わり、ペリーに「国書を受け取るにふさわしい高官を派遣しなければ兵を率いて上陸し、将軍に直接渡す」とおどされてしまいます。

その上にペリーが江戸湾の測量を始め、江戸湾の奥までミシシッピ号を侵入させる動きを見せたため、病床にあった将軍・徳川家慶に代わって実質的な最高権力者であった老中首座・阿部正弘を中心に「国書受け取りもやむなし」の結論に達し、浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道を日本の最高顧問とその補佐役という肩書でペリーのもとに派遣しました。

阿部正弘
幕府は、老中首座である阿部正弘を中心に、アメリカへの対応を決めました。

浦賀奉行と会見したペリーはフィルモア大統領の国書を手渡し、アメリカが要求する開国を促しますが、幕府側は将軍の病気を理由に1年の猶予を求めます。ペリーはこれを了承し、1年後に再来航することを告げ、艦隊を北上させて江戸の港が見えるところまで行くなど十分に幕府を威嚇した上で浦賀を離れました。

ペリーが日本を離れたわずか10日後に家慶が死去。跡を継いだ家定は病弱で将軍の大任に耐えられる人物ではなく、結果、老中・阿部正弘を中心に幕閣、譜代大名、外様大名を問わずに意見を求めました。しかし結論は出ず、狼狽する姿だけが浮き彫りにされ幕府の権威は失墜。幕閣以外にまで意見を求めたことも、大名の発言力を強めるきっかけとなってしまいました。

日本を動かしたペリー来航

ペリー艦隊来航記念碑

当初は1年後の再来航を予定していたペリーですが、プチャーチン率いるロシア艦隊が日本と交渉していることを知ると、予定を変更しわずか半年後の嘉永7年(1854)1月16日に浦賀に再び来航します。江戸湾に集結した外輪式蒸気船3隻を含む計9隻の艦隊を前に、幕府は震撼しました。交渉は難航しましたが、結局幕府は開国の方針を固め全12条の日米和親条約を締結。4隻の黒船が来航してからわずか半年で、200年続いた徳川幕府による鎖国が破られました。こののち幕府は外国の脅威と国内諸藩からの圧力によって統治能力を失っていき、激動の幕末を経て日本は明治という新しい時代を迎えることになるのです。

 

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