武家政権を終わらせ、近代の扉を開いた「明治維新」から今年で150年。これを記念し、「その時歴史が動いた」の司会などで知られる松平定知氏による全4回の新連載がスタート。題して「松平定知が語る明治維新150年 ~その時 日本が動いた~」!第2回のテーマは薩長同盟を成立させ、明治維新の立役者となった「坂本龍馬」です。
英雄は英雄を知る
次々と知人に紹介されていく龍馬
2018年は、明治維新(明治改元)からちょうど150年目となる。この明治維新を語るうえで外せない人物のひとりが、坂本龍馬である。龍馬がいなければ薩長同盟が結ばれず、ひいては明治維新が遅れていたか、起こっていなかった可能性すら考えられるからだ。なぜ龍馬が薩長同盟を仲介できたかについては、その人脈の広さに尽きるといえよう。
親藩であり、幕府の中枢にいた福井藩主の松平春嶽(慶永)は、藩の内外を問わず視野の広い青年と会って話を聞くのが趣味だった。たとえば春嶽は、熊本藩の横井小楠を自分のブレーンとして登用し、自藩の橋本左内や由利公正、中根雪江らを重用している。そんな春嶽が龍馬に会ったとき、紹介したい人物がいると言った。それが勝海舟だった。
春嶽と龍馬が会ったのは文久2年(1862)12月5日で、龍馬が海舟に会ったのは12月9日。その間わずか4日という驚異的なスピードだった。しかも龍馬は当時、土佐藩を脱藩した身である。脱藩者は幕藩体制のなかでは重罪人であり、まずその犯罪者と福井藩主の春嶽が会うということ自体がとんでもない話である。しかのみならず、春嶽が犯罪者を幕府の閣僚クラスの海舟に会わせようという発想もぶっ飛んでいるし、その紹介状を見て会ってみようと思った海舟の度量もすごい。彼らの人間としてのスケールの大きさもさりながら、龍馬にも人を惹きつける魅力があったのだと思う。
さて、千葉重太郎(北辰一刀流「千葉周作」の弟・定吉の長男)とともに海舟に会いにいった龍馬だったが、このとき少なくとも重太郎は幕府の重鎮である海舟を斬ろうとしていたといわれる。しかし、咸臨丸の艦長として世界を目の当たりにしてきた海舟が、地球儀を見せながら「いかに日本がちっぽけで、そのなかで土佐藩だ薩摩藩だとやっている場合ではなく、これからは世界を相手にしなければならず、そのためには海軍が必要だ」と説くと、龍馬は感銘を受け、海舟の弟子になることを即決した。ふたりの気迫に、重太郎は刀を抜くチャンスを逸したという。まさに「英雄は英雄を知る」ということである。
さらに龍馬は、その海舟の紹介で西郷隆盛に会う。1864年8月のことである。龍馬が西郷の印象を捉えどころのない人物だとして、「大きくたたけば大きく鳴って、小さくたたけば小さく鳴る」と鐘にたとえて評したエピソードは有名である。そのひと月後の9月、海舟は西郷と初めて会うのだが、海舟は西郷に「もはや幕府は不要。日本は共和制にすべきだ」と論じた。幕臣・海舟のこのひと言に西郷は仰天する。この後、西郷が畏友・大久保利通に「(勝に)惚れ申し候」という書簡を送ったのも有名な話である。ここに春嶽・海舟・西郷・龍馬という、ひとつの英傑たちの輪が形成された。
人との出会いが次の一手を生む!
薩長同盟は龍馬の人脈の集大成
土佐藩の絵師に河田小龍という人物がいる。この河田が、龍馬にあたえた影響力も大きい。河田は、アメリカから帰国したジョン万次郎が土佐藩の吉田東洋から取り調べを受けた際、記録係として同席していた。このとき河田は、世襲制ではない選挙による議会政治の仕組みや自由に商売ができる経済のシステムといった欧米の事情を、ジョン万次郎を通して知り『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく)』に書き記す。龍馬は、この河田から世界の情勢を聞いて、視野を広く持つことができたのである。
私もNHKに入局して初任地が高知だったからよくわかるのだが、土佐は地形的に北には四国山地がそびえ、南には太平洋が広がっていて、ある意味で日本のほかの地域から隔絶されている。龍馬はそんな狭いところで上士だ郷士だとやっていてもバカらしく、太平洋を眺めながら海の向こうにあるといわれる違う世界に希望を抱いたのである。河田との出会いによって龍馬の海外志向が触発されていったのだ。
海外に興味をそそられた龍馬は、しだいに外国の情報が集まる長崎へと足を向けるようになる。そこで女性の商人・大浦慶と出会い、グラバーのところに南北戦争で不要になった鉄砲がたくさんあるという裏情報を入手した。
一方、龍馬はかねてより長州藩に金を借りに足を運んでいて、桂小五郎(のちの木戸孝允)ら藩の首脳部に面識があった。高杉晋作からはピストルをもらったという逸話もあり、それがのちに寺田屋事件で龍馬の命を救ったともいわれている。龍馬はそんな長州藩から、幕府の長州征伐に対し武器が不足していて困っているという相談を受けたのである。
そんなとき、海外にならった新体制を構築したいと思っていた龍馬が、薩摩藩の西郷に対して長州藩との同盟を持ちかけたのは、ある意味で自然の流れだった。このように、龍馬は人の輪を広げていく才能に長けていた。こうした龍馬の人脈の総合作品が、薩長同盟なのである。
改良主義の龍馬と革命主義の西郷
新体制へと動きだすそれぞれの思惑
龍馬は「いろは丸事件」で紀州藩から多額の賠償金を手にした直後、船の上で土佐藩の重臣である後藤象二郎に意気揚々と「船中八策」を口述した。前土佐藩主である山内容堂に大政奉還を進言させるためである。当時、薩摩藩や長州藩に比べておくれをとっていた土佐藩は、新体制における地位の確保をめざしていた。容堂の建白で大政奉還がなされたあと、龍馬は船中八策をもとにして「新政府綱領八策」を発案している。
この新政府綱領八策で注目すべきは、今後の日本の政治体制は「○○○自ラ盟主ト為リ」と伏せ字を用いていることである。ここに誰の名前が入るのか、なぜ伏せられたのかという点については研究者のあいだで長く推論されており、「慶喜公」「容堂公」などさまざまな説が取り沙汰されている。また、伏せ字についても、これを見る人たちが自由に理想の名前を入れて読むことができるよう玉虫色の書状にしたともいわれている。
この龍馬の動きに対して、ちょっと違うぞと思ったのが西郷隆盛である。大政奉還のあと、将軍の徳川慶喜は「どうせ朝廷は政治なんてずいぶん長くやったことがないので、最終的にはこちらに依頼してくるはず」と読んでもいた。それを看破した西郷は、「徳川家が残ってしまっては、新しい政治体制なんて築けない」と思う。龍馬は「幕府には長期政権によるいくつかの制度疲労はたしかにある。でも、何事にも完全無比なんぞあるはずもない。良い部分はそのまま残し、悪い部分をより良く直していけばいいじゃないか」という立場だったが、西郷は「新しいものをつくるには、良いものも悪いものも全部ひっくるめて、古いものはそのすべてを完全に壊さなければならない」という考え方だった。
大政奉還の1年10か月前、薩長同盟の成立の直後に寺田屋で伏見奉行の役人に襲われた龍馬は、近くの薩摩屋敷に逃げこんだ。彼に寄り添うお龍と一緒に、西郷は誠心誠意、龍馬を庇護した。やがて、その傷の養生のためにと、お龍ともども霧島への温泉旅行を提案したりもしている。これを龍馬とお龍はありがたく受けるのだが、このふたりの旅行が日本初の新婚旅行といわれる。要するに、西郷と龍馬はそういう蜜月の仲だったのだが、あの大政奉還のあと、ふたりには考え方の相違が生じた。そして、大政奉還の1か月後、龍馬は暗殺される。下手人は京都見廻組だったが、それを陰で操っていた黒幕が存在していたのではないかという見方も根強くあるのも事実である。
甥の子孫が「六花亭」のデザインを担当
人と人とをつなげていく龍馬の真骨頂
現代人が龍馬から学んでほしいことは、前例にとらわれない姿勢である。前例を行動規範のひとつにしては、なにも生まれないからだ。
たとえばテレビの野球中継で、かつてNHKは「1回表」「1回裏」と、どちらとも漢字表記だった。しかし遠くから画面を見ると、イニングの表なのか裏なのかよくわからない。そこで「表裏の漢字表示をカタカナにしたらどうか」という提案があったが、「そういうことは前例がないから」として当初は取りあげられなかった。ちなみに、いまは「裏」は「ウラ」と表記されている(と思う)。
「前例がないから」と新しい提案を却下すれば、そこには進歩の可能性はない。新しいことを生みだすためには、一定のルールにのっとったうえで、前例がないからやってみようというアグレッシブな精神がまず必要なのではないか。これは、まさに龍馬の「生き方」である。
また、人との出会いを大切にする龍馬の姿勢も、現代を生きる人たちのヒントになる。出会いから生まれる対人関係は、別に仲良しこよしでなくてもいい。人と出会うことで自分の可能性が広がり、インスパイアされることが重要なのである。龍馬はいろいろな人たちから知識を得て、協力してもらった。現代人は便利なメールでやりとりをしてしまいがちだが、実際に人と対面することで見えてくる世界や広がる人脈があることを知ってほしいと思う。
日本人が龍馬を好きなのは、自分の立身出世のために行動をしていないからではないか。このあたりは、西郷と共通している。そんな龍馬が、あろうことか教科書から消えるかもしれないという話題を耳にした。もしそれが本当ならば、とんでもない話である。人は歴史の年号や出来事ではなく、まず歴史上の人物のキャラクターに興味や共感をおぼえていくものだからである。ますます若者の歴史離れが進んでしまう危険性をはらんでいるので、誰がどういう基準で選んだのか明確にしてもらいたいところだ。
さて、龍馬は新政府体制が一段落したら「北海道へ渡りたい」と死の直前の手紙に書いている。北前船の貿易をもっと活発にして、北海道を拠点とした新しい国づくりを思い描いていたのだ。歴史に「たら」「れば」はナンセンスだが、もし龍馬が生きていたら、明治維新も違ったものになっていたと思うし、それを想像するだけで楽しい時間が過ごせてしまうのが、龍馬のすごいところでもある。
龍馬の影響を受けて、彼を尊敬していた甥が北海道に移住した。その甥は挫折して郷里に帰るが、そのあとも北見に牧師として住んだ一族がいる。その子孫のひとりにあたる自然画家の坂本直行は、北海道のおみやげの定番「バターサンド」などで知られる「六花亭」の包装紙をデザインしている。龍馬は死してなお、人と人とをつなげていく。こういう不思議な縁が、歴史のおもしろいところでもある。
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