チャンネル銀河で2018年9月17日(月)より好評放送中の大河ドラマ「八重の桜」。これを記念し、同ドラマの時代考証を担当した歴史作家・山村竜也先生による全4回の新連載「時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』」がスタート!
第2回のテーマは、会津戦争で悲劇の最期を迎えた15歳の白虎隊士・伊東悌次郎と山本八重にまつわる物語です。
八重の隣家の悌次郎
会津の桜・山本八重は、鶴ヶ城からほど近い米代四ノ丁に住んでいましたが、隣の伊東家に悌次郎という15歳の少年がいました。のちに白虎隊に入隊して、飯盛山十九士の一人となった伊東悌次郎です。
なにしろ隣家だったので、9歳年上の八重にとっては、子供のころからかわいがっていた弟のような存在でした。ちなみに伊東家の真裏には八重の親友の日向ユキの家があり、その隣には同じく高木時尾の家がありました。八重の幼なじみたちが、米代四ノ丁から三ノ丁にかけての区画に隣接して住んでいたのです。
慶応4年(1868)3月になると、会津藩士たちは来るべき新政府軍との戦争にそなえて、玄武隊、青龍隊、朱雀隊、白虎隊という4つの大隊に新たに編成されました。このうち白虎隊は、最年少の16歳と17歳の者による少年隊で、いわば予備の部隊として発足したものです。
会津藩としては、18歳になれば一人前の兵士と見なされるけれども、16歳と17歳はまだ一人前とするには少し早い。まして15歳以下の者は、兵士として戦場に出ることは認められないという考え方でした。
しかし、この年15歳の伊東悌次郎は、人一倍勇敢な性格で、規則上、白虎隊に入れないことを残念に思っていました。それでやむなく、現状では入隊できなくてもチャンスを待とうと、武術の稽古だけは怠らずにいたのです。
幸いに隣家は、会津藩砲術師範役の山本家で、子供のころから姉のように慕っていた八重がいました。この八重が女の身ながら鉄砲の遣い手に成長していたのを見て、悌次郎は八重に鉄砲を習いにいくことにしたのでした。八重ならば女性だから、やさしく教えてくれるという思いもあったでしょう。
八重の鉄砲教授
悌次郎が鉄砲を習いに来ていたことは、八重の回顧談に出ています。
「隣家の悌次郎は十五才のため白虎隊に編入されぬのを始終残念がって居ましたが、よく熱心に毎日来ました。そこでわたしはゲベール銃を貸して機を織りながら教えましたが、最初の五、六回は引鉄(ひきがね)を引く毎に、雷管の音にて目を閉づるので、その都度臆病々々とわたしに叱られーー」(『会津戊辰戦争』)
八重の指導は、けっこう厳しいものでした。女性だからやさしく教えてくれると思ったであろう悌次郎の期待は、見事にはずれてしまいます。男子にとって、女性から「臆病」といわれるのはつらいことでした。
それでも生来勇敢な悌次郎は、やがて鉄砲の轟音にも慣れ、発射のときに目をつぶることはなくなりました。意外に早かった基本射撃の会得に、八重は満足し、次の段階に移ります。
「次に櫓(照尺)の用法や各種姿勢の撃ち方などを教へ、大概出来たので、今度は下げ髪長ければ射撃の動作を妨ぐる理由を説き、これを短く断ってやりました」(『会津戊辰戦争』)
照尺というのは、鉄砲の銃身の上に取り付けた照準装置のことです。これを標的にうまく合わせながら、狙って発射します。また撃ち方の姿勢としては、一般的な「立ち撃ち」のほかに、「伏せ撃ち」がよく用いられました。伏せていれば敵から自分の姿が見えにくく、なおかつ射撃の精度が高い姿勢だったからです。
ところがこの姿勢の場合、うしろで結んで垂らした自分の髪が前に来て、じゃまになることがあります。悌次郎の下げ髪が射撃の妨げになるのを見た八重は、がまんできず、垂れた部分をばっさりと切ってしまいました。
これには八重の母の佐久が驚き、「厳格なる伊東家に無断で断髪したのは、乱暴きわまる」(同書)といって、八重を厳しく叱ったといいます。生徒の髪を保護者に無断で切って、あとで問題になったりする現代の先生のようですね。
八重の痛恨と悌次郎
八重のもとで鉄砲の腕を磨いたものの、15歳の悌次郎は年齢制限にはばまれて、その後も白虎隊には入隊できませんでした。それでも兵士になりたくて仕方がない悌次郎は、16歳と年齢を偽ればいいのではないかと父の左太夫に懇願しましたが、父はもちろん承知しません。
しかし、どうしても聞かない悌次郎に父も折れ、白虎隊隊長の日向内記にこのことを相談します。すると、日向は悌次郎の意気に感じ入り、15歳というのは誤りで本当は16歳だったという取り扱いにしました。これにより悌次郎は年齢制限をクリヤーし、晴れて白虎隊の一員となったのです。
鉄砲の先生の八重としては、このことをどう思っていたでしょうか。まだこのころは、新政府軍も会津には迫っておらず、白虎隊が実戦に出ることになるとは思っていなかったかもしれません。
しかし同年8月、国境の母成峠を突破して新政府軍が会津領に侵攻すると、予備隊である白虎隊にも出陣命令が下されることになります。悌次郎が所属する白虎士中二番隊の少年たちは初陣をよろこびましたが、これが悲劇の幕開けでした。
8月22日、出陣した士中二番隊の37人は、戸ノ口原で暴風雨に襲われて隊長日向内記とはぐれ、食料補給のないままに一夜を明かします。翌23日朝、新政府軍との戦闘に及び、兵力的に劣る白虎隊は蹴散らされるようにして敗退。散り散りになって撤退するのでした。
悌次郎ら20人ほどの一団は、嚮導(リーダー)篠田儀三郎に従って飯盛山に登り、そこから鶴ヶ城を目指して進もうとします。しかし、飯盛山の中腹に出た彼らが見たものは、炎につつまれた城の姿でした。
少年たちは、がっくりと肩を落とし、しばらくの間、言葉もなくその場にたたずみました。昨夜から何も食べてない上、睡眠もとらずに行軍、戦闘を続けてきた彼らは、この光景を見て一気に気力を失ってしまったのです。やがて篠田が一同に向かっていいました。
「殿様のおられる鶴ヶ城は、すでに猛火につつまれ、われわれの進むべき道はまた敵にふさがれている。われわれのつとめはもはやこれまでである。一同いさぎよく自刃して、同志とあの世で再会しよう」(『会津戊辰戦争』より)
悌次郎らはこれに同意し、遠く鶴ヶ城に向かって手を合わせると、みな刀を抜いて腹を切り、あるいは喉を突きました。実際には、彼らが命を散らせたこのとき、まだ鶴ヶ城は燃えておらず、落城したわけではありませんでした。前日からの疲労と空腹が、判断を誤らせる原因となったのでしょう。
悌次郎ら白虎隊19人が悲劇的な最期をとげたちょうどそのころ、八重は7連発スペンサー銃をかついで鶴ヶ城に入城していました。そして、悌次郎らの仇を討つかのように、スペンサー銃で新政府軍兵を狙撃して、会津人の意地を見せつけます。
一か月の籠城ののち、力尽きた会津は降伏を決定。八重の戦いも終わりました。そして、戦いのなかで悌次郎らが悲しい末路をたどったことを知り、涙ながらにこう語りました。
「あのような子供も君(主君)のためを思ふて熱心に習ひに来てあったかと思ひますと、誠にかわいそうでなりません」(『会津戊辰戦争』)
自分が鉄砲など教えなければ、もしかしたら悌次郎を死地におもむかせることもなかったのではないか。そういうふうに自分を責めることもあったかもしれません。会津の正義のためにあくまでも戦った自分の行動は正しかったと信じているけれども、戦争はどこまでいっても悲劇しか生むことはない。八重は生涯、そういう思いを忘れることはなかったでしょう。
大河ドラマ「八重の桜」チャンネル銀河で放送中!
放送日:月-金 朝8:00~ ※リピート放送:月-金 深夜1:15~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/feature/yaenosakura/
<連載:時代考証担当・山村竜也が語る『八重の桜』>
第1回「会津に咲いた一輪の桜・山本八重」
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