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【加藤清正と熊本城】築城までの経緯と歴史、構造から逸話まで

【加藤清正と熊本城】築城までの経緯と歴史、構造から逸話まで

日本の歴史上で、最も小説やドラマなどに取り上げられている時代の一つである戦国時代。多くの有名・無名の戦国武将たちが活躍しましたが、当時から現代に至るまで多くの人々から尊敬される武将のひとりが加藤清正です。そんな清正が築いた天下の名城と呼ばれる熊本城は日本三名城にも数えられ、現在でも多くの人が訪れ、人気を誇っています。そんな観光地としても魅力的な熊本城ですが、実にさまざまな興味深い逸話があるのです。

今回は、清正が熊本城を築城した経緯からその歴史、城の構造や清正に関連する逸話についてご紹介します。

加藤清正が熊本城を築城するまで

加藤清正は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の配下としてキャリアをスタートし、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた武将です。彼が熊本城を築城するまではどのようなことがあったのでしょうか。築城前までの経緯についてご紹介します。

豊臣秀吉
清正は豊臣秀吉に仕え、武勲を立てていきました。

清正が肥後を任されるまで

清正は秀吉に従い、天正10年(1582)「山崎の戦い」と翌年の「賤ヶ岳の戦い」で武勲を立てると、賤ヶ岳の七本槍の一人として、3,000石の所領を与えられました。天正13年(1585)に秀吉が関白に就任すると、清正も従五位下・主計頭を叙任。天正14年(1586)には秀吉の九州平定に参加し、当時の肥後国領主だった佐々成政が失脚すると、この後を任され隈本城、のちの熊本城に入りました。

完成を祝い、名称を熊本城に!

秀吉の時代に現在の熊本県である肥後の北半分を統治していた清正ですが、豊臣から徳川へと寝返り、東軍として戦った関ヶ原の戦いでの貢献が認められ徳川家康から肥後全域の統治を任されます。当時の九州は、関ヶ原で西軍に属し、現在の鹿児島である薩摩を本拠地とする島津家の影響力が強く、家康は頭を悩ませていました。この戦国最強とも称される島津家を抑えるため、家康は清正に肥後を任せます。こうして肥後全域を支配した清正は慶長11年(1606)に城が完成したことを祝い、翌年に隈本から熊本と名称を変更、城の名称も熊本城となりました。

熊本城の歴史と構造を知ろう

桜の時期の熊本城

熊本城には、清正から続くさまざまな歴史と構造についての秘密がありました。熊本城の歴史と構造についてご紹介します。

熊本城の歴史について

関ヶ原の戦いの後は肥後一国を統治した加藤家ですが、清正の子の代になって所領や居城を没収され、出羽庄内藩にお預けとなってしまいます。改易の理由は「平素の行跡正しからず」というものでしたが、具体的な内容については諸説あり確実なことはわかっていません。一説では加藤家が幕府からその存在を警戒されていたとも言われています。

その後、肥後熊本藩の統治を任されたのは古くから続く名族、細川家でした。細川家は清正の肥後での人気を鑑み、熊本城を積極的に修復したそうです。こうして肥後熊本藩は、細川家統治のまま幕末・明治維新を迎えました。

熊本城が再び歴史の注目を浴びるのは、日本最後にして最大の内戦である西南戦争です。新政府に不満をもった薩摩士族たちが鹿児島から東京に攻め上がるべく北進し、熊本城にぶつかりました。このとき薩摩勢を迎え撃ったのが、熊本鎮台司令長官の谷干城でした。谷は熊本城を盾に応戦し、薩摩士族の猛攻をしのぎ、明治政府の勝利に大きく貢献しました。

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隈本城・千葉城を取り込んで築城した平山城

熊本城は熊本県熊本市の茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城です。平山城とは地形が守勢側に有利になるように計算され高低差を使って造られた城のこと。この地域には元々、隈本城と千葉城が築かれており、この2つの城を取り込む形で清正が安土桃山時代末期から築城していったのが熊本城だったのです。

日本三名城とされる構造とは?

熊本城が名城とされる大きな要因には構造面も挙げられます。城の防御力の要素を占める石垣ですが、熊本城の石垣は清正流(せいしょうりゅう)と呼ばれる独特の積まれ方をしており、武者返しと呼ばれるそり返しで非常に登りづらい構造をしていました。この城は清正が長年戦い続けた経験をもとに造られており、50近い櫓や120余りの井戸などがあり、見張りや敵の発見、偵察や籠城などに非常に多くの効果を発揮したのです。櫓は宇土櫓や飯田丸三階櫓などの名前が付けられ、偵察だけでなく攻撃拠点としても機能し、また本丸御殿は南北にまたがって建ち、地下通路で結ばれるなど他の城が持たない特徴を多く持っていました。城としての能力は、清正の死後数百年経った後の西南戦争でも発揮されたといえるでしょう。

清正と熊本城に関する逸話

加藤清正
清正は現在でも“清正公”として、熊本の人々に親しまれています。

加藤清正と熊本城には現代まで語り継がれる多くの逸話が残っています。清正と熊本城に関する逸話について見ていきましょう。

別名は銀杏城

姫路城が白鷺(はくろ)城と呼ばれるように、熊本城には銀杏城という別名があります。この名前は、清正が手植えしたと伝わる銀杏の木から来ているそうです。清正は城に籠城するときのためにさまざまな備えをしていましたが、その一つが、木材の補給のために植えていた銀杏でした。現在では当時の銀杏は残っておらず、新しく成長した銀杏の木があり、季節になると美しい葉をつけています。

治水事業に熱心だった清正

清正が当時の肥後人から尊敬されていた大きな理由の一つに、盛んに領民の役に立つ事業を行ったことが挙げられます。清正は築城の名手として有名ですが、土木工事や農耕事業にも大きな力を発揮しました。特に熱心に行われた治水事業では、農業による収穫を大きく向上させ、現在までその治水工事の遺構が残っているほどです。

「昭君之間」のエピソード

熊本城には「昭君之間(しょうくんのま)」という謎めいた秘密の部屋がありました。この部屋は最も格式の高い間である謁見の間のさらに奥にあり、王昭君(おうしょうくん)の絵画で彩られていたそうです。王昭君とは中国四大美女として有名な漢時代の女性で、国のために敵国である匈奴(きょうど)に嫁いだ悲劇の人として知られており、この人物の名前からこの部屋は名付けられたとされています。しかし、一説には昭君とは将軍の隠語であり、清正が大切に思っていた最初の主君である羽柴氏、後の豊臣氏の三男・秀頼を有事の際にかくまう部屋だったのではないかと言われているのです。この部屋には、鶯張り(うぐいすばり)の廊下や、外へと通じる隠し通路があったとされていることもその説を後押ししており、清正の豊臣家への忠誠心がうかがい知れます。

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日本一と称される城!

熊本城の復旧工事
震災による被害にあった熊本城。現在も復旧工事が続いています。

築城の名手として知られる加藤清正の熊本城。さまざまな構造上の工夫があり、清正、細川家、熊本の人々とともに長い時代を過ごしてきました。国の重要文化財も多く保存されており、現在でも多くの観光客が訪れる有数の名所になっています。日本一とも称されるこの城は、西南戦争の戦火や最近では平成28年(2016)の熊本地震によって被災しました。熊本地震の被害によって多くの建造物や文化財が修復を要するほど傷つき、現在も復旧工事が行われています。復興までには長い年月がかかると予想されていますが、熊本の象徴として多くの人から愛され続ける城であることに変わりはありません。

 

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