今までに多くの時代劇が生み出されましたが、その中でも有名な作品の一つが『水戸黄門』でしょう。この作品のモデルとなったのは、常陸水戸藩の第2代藩主・徳川光圀(とくがわみつくに)です。
時代劇では旅する好々爺(こうこうや)としておなじみですが、実際の光圀については詳しく知らない方も多いのではないでしょうか。
そこで今回は、光圀の生まれや藩主時代の経歴、生涯で行った事業や残された逸話についてご紹介します。
徳川光圀の生涯とは?
『水戸黄門』として取り上げられた徳川光圀ですが、一体どのような経歴の持ち主だったのでしょうか。まずはその人生を振り返ってみましょう。
徳川家康の孫だった
光圀は、寛永5年(1628)に水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男として生まれました。母が正式な側室ではなかったため家臣の屋敷で産声を上げましたが、血筋としては徳川家康の孫に当たります。
寛永9年(1632)水戸城に入城し、世子に決定してからは江戸の小石川邸で世子教育を受けます。承応3年(1654)に近衛信尋(このえのぶひろ)の娘・尋子(ちかこ、泰姫・たいひめ)と結婚したのち、紀伝体の歴史書『大日本史』の編纂(へんさん)に着手しました。
藩主となった光圀
寛文元年(1661)第2代水戸藩主に就任した光圀は藩政に乗り出します。井戸水の濁りを解消するため水道を整備し、村単位の開基帳を作成して寺社の廃止や移転を行いました。寛文5年(1665)には明の儒学者・朱舜水(しゅしゅんすい)を招いて水戸藩の学風の基礎を築いています。また『義公行実』によれば、全国初の殉死禁止令も出しました。
延宝元年(1673)江戸帰府の際に鎌倉に立ち寄り、名所を探訪して『甲寅紀行(こういんきこう)』、『鎌倉日記』を記します。また蝦夷(えぞ)地探検も3度行い、塩ザケ、熊皮、ラッコ、トドの皮といったものを入手していたようです。
隠居した後の行動とは
元禄3年(1690)に光圀は幕府から許可を受け、西山荘(せいざんそう)に隠居します。藩主は養嗣子・綱條(つなえだ)に継承され、光圀自身は権中納言に任命されました。
隠居後も碑の修繕や古墳の発掘を行ったり、製薬方法を記した『救民妙薬』を編集させたりと水戸藩に尽くした光圀ですが、重臣・藤井紋太夫(ふじいもんだゆう)を江戸で刺殺するという事件も起こしています。これは紋太夫が高慢な態度をとって家臣を不安にさせたことや、柳沢吉保とともに光圀の失脚を謀ったことが原因のようです。
こうしてさまざまな功績を遺した光圀は、元禄13年(1701)に食道がんで亡くなりました。水戸市常磐町の常磐神社では、光圀を主祭神として祭っています。
水戸学の礎を築いた光圀
光圀は修史事業に尽力したことでも知られています。文化的な側面で大きな貢献を果たした彼の功績には、どのようなものがあるのでしょうか。
『大日本史』を編纂した
18歳のころ『史記』伯夷列伝(しき・はくいれつでん)に影響を受けた光圀は、紀伝体の日本の歴史書をまとめたいと考え『大日本史』の編纂に着手しました。当時はまだ藩主ではありませんでしたが、明暦3年(1657)に修史局を設け、人見卜幽(ひとみぼくゆう)、辻端亭(つじたんてい)など4人を史局員に迎えます。藩主就任後は修史事業が本格化し、史局員は20人まで増えました。この事業は光圀の死後も継続され、明治39年(1906)に完成を遂げます。
彰考館を設立する
寛文12年(1672)光圀は江戸駒込別邸内に置いた修史局を小石川邸内に移し「彰考館(しょうこうかん)」と名付けます。このころ幕府でも『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』の編纂事業が行われていたため、その影響を受けたようです。「彰考」は光圀の命名で、『春秋左氏伝』の「彰往考来(往事を彰[あき]らかにし来時を考察する)」という言葉に由来しています。この修史局には光圀直筆の額が掲げられ、5カ条の心得も記されました。
後世に大きな影響を与えた水戸学
水戸学とは、江戸時代に水戸藩で成立した学風を指します。朱子学が主となっていますが、国学・史学・神道などさまざまな学派を網羅しており、全国の藩校でも採用されていたようです。尊王敬幕の政治的思想が強く、この考えは吉田松陰や西郷隆盛など多くの幕末志士に影響を与えました。
一般的には、光圀の修史事業に携わった学者らの間で成立したものを前期水戸学、第9代藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の藩政改革で大成したものを後期水戸学と呼んでいます。
水戸黄門のモデルはこんな人物だった
さまざまな事業に貢献した光圀ですが、その人物像とは、どのようなものだったのでしょうか。残された逸話についてご紹介します。
少年時代は不良だった?
16~17歳の少年時代は、町で刀を振り回したり吉原遊郭に通ったりするなど、いわゆる不良だったといわれています。これは、兄・頼重を差しおいて自分が世子になったことに複雑な気持ちを抱いていたことが原因のようです。
しかし司馬遷の『史記』伯夷列伝に感銘を受けてからは学問に没頭し、19歳のころには人見卜幽によって「朝夕文武の道に励む向学の青年」と称されるほどになりました。
光圀と食べ物に関する逸話
好奇心旺盛だった光圀は、日本で初めて「餃子」「チーズ」「牛乳酒」「黒豆納豆」「ラーメン」を食べたといわれています。「生類憐(あわ)れみの令」を無視して牛肉や豚肉も口にしており、ワインを愛飲したり朝鮮ニンジンを取り寄せたりと、海外食品にも興味があったようです。
また、朱舜水から献上された中華麺をもとに自家製うどん(内容的には現在のラーメン)を作り、「後楽うどん」と名付けて客や家臣にふるまったという記録も残されています。
実は諸国漫遊していなかった?
『水戸黄門』の影響から諸国漫遊のイメージが強い光圀ですが、実際に訪れたのは日光、鎌倉、金沢八景、房総など関東地方の範囲です。『大日本史』の資料集めとして家臣をさまざまな国に派遣したため、諸国漫遊をしたイメージが付いたのでしょう。また徳川一門の長老として幕政にも影響力があったため、『水戸黄門』のような人物像が定着したと考えられます。
魅力あふれる人物として知られる
TVドラマで人気の『水戸黄門』ですが、作中で描かれるイメージと史実の光圀とでは少し違いがあるようです。実際の光圀は諸国漫遊をしませんでしたが、いつもと違う道を通って名所をたどったり、蝦夷地探訪を構想したりと好奇心あふれる人物でした。また新しい食べ物を率先して試すなど、時代を先取りする能力の持ち主だったようです。光圀は創作作品の中だけでなく、史実としても多くの逸話を残す、魅力あふれる人物だったことは間違いないでしょう。
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