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【伊達政宗の母:義姫】驚くべき行動力を持つ彼女の真の姿に迫る!

【伊達政宗の母:義姫】驚くべき行動力を持つ彼女の真の姿に迫る!

戦国時代に名を轟かせた人物の多くは男性ですが、女性にも歴史に名を刻んだ人物がいます。伊達政宗の母・義姫(よしひめ)もその一人といえるでしょう。
政宗といえば「独眼竜政宗」の異名を持ち現代でも人気の戦国武将です。彼には型破りなエピソードが多いですが、母の義姫もなかなか豪快な逸話を残しています。
ここでは義姫の生い立ちや人物像、彼女にまつわるエピソードや政宗毒殺未遂事件についてご紹介します。

政宗の母:義姫の生い立ちと人物像

まずは義姫の生い立ちと人物像について見ていきましょう。戦国の世をたくましく生きた義姫とは、一体どのような女性だったのでしょうか。

最上家に生まれ伊達家に嫁いだ

最上義光
義姫の実兄である最上義光です。

義姫は天文17年(1548)出羽国の戦国大名・最上義守の娘として山形城で生まれました。出羽山形藩の初代藩主となった最上義光(よしあき)は2歳年上の実兄です。二人は仲が良かったようで手紙も多数残されています。
最上家と対立していた伊達輝宗に嫁いだ義姫は、19歳で政宗を出産しました。その後、次男の小次郎と2人の娘にも恵まれますが、娘は2人とも早くに亡くなっています。
米沢城の東館に住んだため「お東の方」や「最上御前」とも呼ばれており、出家後は保春院と名乗りました。

勝ち気で頭が良いとされる人物像

義姫はとても気丈で男勝りな性格だったため、「奥羽の鬼姫」と呼ばれるほどでした。また、頭が良く政治にも積極的に関わっており、伊達家の中で大きな発言権があったようです。
歴史上には義姫以外にも政治に関わった女性がいますが、義姫の場合は抜群の行動力を伴っていました。もし男性に生まれていたら兄・義光と肩を並べる武将になっていたかもしれません。

義姫の驚くべき行動力とは?

男性に引けを取らない豪快さをもつ義姫ですが、実際にどのようなエピソードがあるのでしょうか。その驚くべき行動力を示す逸話をご紹介します。

駕籠で陣中へ!夫を撤退させる

伊達輝宗
義姫の夫である伊達輝宗です。

戦国時代は親子や兄弟間で争うことも少なくありませんでしたが、天正6年(1578)義姫の身にもそのような事件が起こります。夫の輝宗が上山城主・上山満兼と連合して兄の義光を攻め始めたのです。
このとき義光は不利な状況にあり、兄の危機を察知した義姫は急いで戦場に向かいました。駕籠で陣中を走り抜け夫のもとに向かった彼女は、輝宗に抗議し停戦を訴えます。この行動は功を奏し、伊達軍は戦場から撤収しました。

大崎合戦でも輿に乗って登場!

天正16年(1588)の大崎合戦でも義姫は戦場に駆けつけています。政宗はこの戦いで伊達家に離反しようとする大崎義隆を攻めましたが、敵方に義光の援軍が駆けつけたため危機に陥りました。
このとき義姫は、甲冑を身に着けて輿に乗り、兄に停戦を要求したといいます。しかも輿に乗ったまま両軍の間に居座り、両者に対し睨みをきかせました。これにより伊達側も最上側も攻撃できなくなり、80日後ついに撤退。政宗と義光は和睦することとなったのです。

【政宗毒殺未遂事件】その真相は?

伊達政宗像

並外れた度胸と行動力で知られる義姫ですが、その一方で息子・政宗との不穏なエピソードも有名です。この逸話から母子の不仲説が囁かれていますが、果たして真実はどうなのでしょうか。

伝えられてきた毒殺事件の概要

義姫には政宗を毒殺しようとしたという逸話が残されています。その事件は天正18年(1590)4月、政宗が関白・豊臣秀吉への謁見のため小田原に向かう直前に起こりました。
伊達家の正史『伊達治家記録』によれば、お祝いとして母が用意した膳に箸をつけたところ、政宗は腹痛を起こし、急いで投薬を受けて一命をとりとめたといいます。
この一件でショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟に家督を継がせようとしているのではないか、また母の実家である最上家の陰謀ではないかと考え、自ら弟を手討ちにしました。その晩、義姫は実家のある山形に逃げたとされています。

諸説あるまま真相はわからず

通説ではこの事件の首謀者は義姫とされてきました。しかし平成11年(1999)に発見された資料によれば、義姫が出奔したのは弟である小次郎が手討ちにされた晩ではなく、その4年後であることがわかっています。この間、義姫は政宗と共にいたことになるため、首謀者とは考えづらいでしょう。
『伊達治家記録』の記録の中には、政宗が事件の経緯を知らせた手紙があります。ここで政宗は、毒を盛ったのは母だと考えられること、その背後に弟擁立派の存在があること、伊達家の内乱を避けるために仕方なく弟を手討ちにしたことなどを詳しく語っています。
しかしこの事件には諸説あり、果たして何が真実かは未だにわかっていません。

母と息子の仲は良かった事実

不仲説が囁かれる親子ですが、実際は仲が良かったようです。伊達家には親子間の手紙がたくさん残されており、二人は事件後も手紙をやりとりしています。その内容はどれも仲の睦まじさを感じさせるもので、とても事件のわだかまりを感じさせるものではないのだとか。
政宗が朝鮮出兵した際も義姫は手紙を出しており、政宗はそれに感激して「無事に帰ってもう一度会いたい」と返事をしています。
毒殺しようとした政宗とこのような手紙をやりとりすることは考えづらいため、この事実は義姫首謀者説を否定する理由にもなっています。

最期を仙台で迎えた

最上家に出奔した義姫はのちに仙台城へ戻り政宗と再会しました。これは二人が離れてから28年後のことで、再会の際に交わした贈答歌は政宗の歌集に残されています。
驚くべき行動力を発揮した義姫がこの世を去ったのは、元和9年(1623)7月17日のことです。政宗は十三回忌に菩提を弔うため臨済宗少林山保春院を建立し、自ら母の位牌を作りました。保春院は宝暦2年(1757)の火事で焼けてしまいましたが後に再建され、現在も本堂には政宗がつくった義姫の位牌が残されています。

 

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