古来より日本の中心地として栄えてきた京都には、さまざまな歴史的建造物があります。その中でも特に有名なのが「清水寺」でしょう。清水寺は長い歴史をもつ寺院で、日本有数の観音霊場として知られています。また、「清水の舞台から飛び降りる」という言葉は「必死の覚悟で実行する」という意味のことわざとして、人々の間に浸透しています。
そんな清水寺は坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)によって建立されましたが、そこにはあるエピソードが残されています。ここでは清水寺が建立された理由やその歴史についてご紹介します。
坂上田村麻呂が清水寺を建てた訳とは
音羽山清水寺が開創されたのは、今から1200年以上も前のことです。田村麻呂はどのような経緯で清水寺を建立することになったのでしょうか。
行叡居士が清水寺の始まり
宝亀9年(778)大和国興福寺の僧・賢心(のちの延鎮上人)は、夢のお告げに従って北に向かい音羽山で清らかな水が湧き出る滝に辿り着きました。そこで、滝行し、千手観音を念じ続けていた200歳になるという修行者・行叡居士(ぎょうえいこじ)に出会います。彼は賢心に向かって「あなたが来るのをずっと待っていた。どうかこの霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」と言い残すと、その場を去っていったといいます。
賢心は行叡居士が観音の化身であることを悟り、霊木に千手観音像を刻んで行叡の旧庵に安置しました。これが清水寺の始まりといわれています。このとき2人が出会った滝は「音羽の滝」と呼ばれ、現在も清水寺の人気スポットとなっています。
田村麻呂と賢心の逸話
それから2年後の宝亀11年(780)鹿狩りのために音羽山にやってきた田村麻呂は、清水に導かれ修行中の賢心に出会いました。田村麻呂は妻の病気をやわらげる薬として鹿の生き血を求めていましたが、賢心から殺生の罪を説かれその教えに感銘を受けます。その後、自らの邸宅を寄進した田村麻呂は、千手観音を御本尊として寺院を建立し、音羽の滝の清らかさにちなんで「清水寺」と名付けました。
のちに田村麻呂は征夷大将軍になりますが、東国の蝦夷平定に際し清水寺に参拝しています。また延暦17年(798)には延鎮上人(もとの賢心)とともに本堂を大幅に改築し、地蔵菩薩と毘沙門天の像を祀りました。このような縁起により、清水寺の元祖は行叡、開山は延鎮、本願が田村麻呂となっています。
清水寺について知りたい!
不思議な力に導かれて建立に至った清水寺は、その後もさまざまな人に影響を与えていきました。そして日本を代表する建物として広く知られていったのです。
嵯峨天皇ご公認の寺院となる
延暦24年(805)朝廷から寺地を与えられた清水寺は寺領を広げ、桓武天皇の祈願を行う寺院となりました。また弘仁元年(810)には嵯峨天皇の勅許を受けて公認の寺院になっています。
このとき清水寺は「北観音寺」の寺号を賜りましたが、これは賢心の寺に関係していました。賢心は観音信仰の霊場として知られる子嶋寺の僧でしたが、清水寺はこの寺の北にあったためその名がついたようです。
多くの作品に登場する
清水寺はさまざまな文学作品にも登場しています。清少納言は『枕草子』の中で、「さわがしきもの」として清水寺の縁日を挙げています。これは現代と変わらない騒々しいものという意味で、観音菩薩の縁日である十八日には参籠者があふれたようです。清水寺が人々にとってどのような存在だったかが想像できるでしょう。
また『源氏物語』の「夕顔」の巻や、『今昔物語集』にも清水寺の記載があります。これらが著された平安時代中期、清水寺は観音霊場としてかなり名が知られていたようです。
焼失と再建を繰り返した
現在でも荘厳な姿を保つ清水寺ですが、過去には火災や戦いなどが相次ぎ、焼失と再建が繰り返されました。記録によれば、康平6年(1063)の火災から寛永6年(1629)の焼失に至るまで9回も焼失したそうです。
清水寺は平安時代から興福寺の支配下にあったため、興福寺と延暦寺の争いにたびたび巻き込まれていたのもその原因の一つでした。永万元年(1165)には延暦寺の僧たちにより焼かれ、文明元年(1469)には応仁の乱で焼失しています。現在の本堂は徳川家光の寄進によって寛永10年(1633)に再建されたものです。
征夷大将軍:田村麻呂の逸話
清水寺を建立した田村麻呂には、それ以外にも多くのエピソードが残されています。ここではその逸話の一部をご紹介します。
毘沙門天の生まれ変わりと信じられた
田村麻呂は、奈良時代の公卿で武人だった坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の子供として誕生しました。大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)の補佐として征東副使に任命された後は順調に出世を繰り返し、延暦16年(797)には征夷大将軍に任命されています。
残された資料によれば身長約176cmと体格が良く、性格は誠実で高潔、計略にすぐれ武芸にも秀でていたといいます。まさに非の打ちどころがない人物だったといえるでしょう。
『公卿補任』には「毘沙門天の化身が我が国を護る」といった一文があり、田村麻呂は北の守護神・毘沙門天の生まれ変わりだと信じられていたようです。
鬼神討伐!坂上田村麻呂伝説が残る
三重県と滋賀県の間にある鈴鹿峠一帯には、田村麻呂の鬼神討伐伝説が残されています。滋賀県の田村神社は、鬼神討伐後に田村麻呂が放った矢が落ちた場所に本殿を建てたといわれているのだとか。
このような鬼神討伐伝説に由来する建物は全国各地に残されていますが、そのほとんどは彼が神仏の加護をうけて戦い、その感謝から寺社や将軍塚を建てたというものです。
実際には田村麻呂が訪れたとは考えにくい地域にも波及しているため、これらは後世に作られたエピソードだと考えられます。しかしここまで広範囲に伝承が広がったのは、それだけ彼の影響が大きかったからでしょう。
世界遺産に登録される観光スポット
奈良時代に坂上田村麻呂が建立した清水寺は、何回もの焼失と再建を経て、現在はユネスコ世界遺産にも登録される日本が世界に誇る観光スポットとなりました。境内の「開山堂(田村堂)」には田村麻呂夫妻の像も祀られています。清水寺を観光する際は、多くの伝説をもつ田村麻呂公にも思いを馳せてみてはいかがでしょうか?
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