【近代日本のスポーツ】″フジヤマのトビウオ″ 古橋廣之進:そのすごさと無念のオリンピック

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【近代日本のスポーツ】″フジヤマのトビウオ″ 古橋廣之進:そのすごさと無念のオリンピック

大河ドラマ「いだてん」で、オリンピック金メダリストの北島康介さんが演じたことが話題の水泳選手、それが古橋廣之進です。「フジヤマのトビウオ」といえば昭和世代にはおなじみの名選手。また、亡くなるまで日本水泳の顔として後進の育成などに当たりました。今回は、「トビウオジャパン」の父・古橋廣之進についてお話しします。

「豆魚雷」を生んだ浜名湖のプール

古橋廣之進は1928(昭和3)年9月、静岡県の雄踏町(ゆうとうちょう、現在の浜松市西区)に9人兄弟の長男として生まれました。雄踏町は浜名湖東岸にある町です。父は身体が大きく、祭りの日に催される相撲大会にも出ているような人でした。廣之進にも相撲の稽古をさせていたといいます。

小学校4年生の時、地元の篤志家が浜名湖畔の一角を板で仕切り、岸はスタンドをつけてプールを造ってくれました。板で仕切られているとはいえ、下のほうは海水で魚が流れ込んでくるような簡素なプールでしたが、貴重なものです。プール開きの日、父は廣之進を連れてプールに行き、唐突に「水泳選手にならんか」と言ったそうです。言われるまま廣之進は泳ぎ始めることにします。学校の水泳部に入部し、先輩たちに教えてもらいながら泳ぎました。時に海から流れ込んでくる魚に負けないように必死でした。

小学6年生の時、水泳の県大会が静岡市で行われ、廣之進は100メートルと200メートルの自由形の選手として出場しました。結果は優勝、しかも学童としては全国新記録というおまけつきだったのです。翌日の新聞では「豆魚雷あらわる」と大きく報道されました。この前年、5年生の廣之進は学校での掃除中に感電し、あやうく死にかけています。「この事故で死なずに生き返ったことからこの記録は生まれたのだ」と廣之進は後年振り返っています。

戦争、そして中指の切断を乗り越えて

中学(旧制 浜松二中、現 浜松西高)に進学した廣之進は、2年生時に夏の県大会中学生新記録を出しました。しかし、太平洋戦争に突入したことでそれまでのようには泳げなくなりました。また、中学3年生の時のこと。動員されて軍事工場で働いていた廣之進は、歯車に左手をはさまれ、中指を第一関節だけ残して切断するに至ってしまいます。水泳選手にとって、指は水をかくために欠かせないもの。たとえようのない絶望が廣之進を襲いました。

それでも、運命は見放しませんでした。終戦後、日本大学に入学した廣之進は、2年生の時、「水泳部員募集」の貼り紙があることを知り、もう一度挑戦することにしました。初めての学生大会では、400メートルと800メートル自由形で優勝しました。

また、8月には宝塚市で行われた第1回の国民体育大会(国体)に参加します。ここでも見事400メートル自由形で優勝を飾っていますが、汽車賃がなく無賃乗車で東京から宝塚へ向かったという話が残っています。

戦前から水泳のメッカといわれた明治神宮外苑プールは、戦後、進駐軍に接収され、「フンドシは野蛮」と、日本人は出入禁止でした。しかし、1947(昭和22)年には、日本選手権を開催できました。スフという繊維でできた形ばかりの水泳パンツの配給がプールの解放につながったのです。この大会の400メートル自由形で、準決勝、決勝と2つの世界新記録を樹立。日本は国際水泳連盟(FINA)から除名されており、公認記録にはなりませんでしたが、当時の片山哲首相から総理大臣杯が送られました。

翌1948(昭和23)年、戦後初のオリンピック、ロンドン大会が開かれましたが、それにもまだ日本は参加できませんでした。そこで日本水泳連盟は、オリンピックの水泳競技と同じ日程で日本選手権を神宮プールで開催し、オリンピックの記録とくらべようという試みを行いました。廣之進の記録はオリンピックに出ていれば、世界新記録で金メダルを獲得できたもので、出場できなかったことが悔やまれます。

「フジヤマノトビウオ」の誕生と挫折

水泳競技

1949(昭和24)年6月、日本水泳連盟は国際水泳連盟に復帰を果たしました。そして初の海外遠征が決まり、代表選考を兼ねた日本選手権の結果、日大4、と、早大2の6選手が選ばれました。ただ、当時の日本は占領下にあり、通常ではビザなどもらえません。最終的に選手一同が最高司令官マッカーサー元帥に面接の上、サインした書類をもらうこととなりました。マッカーサーはかつてオリンピックアメリカ選手団の団長を務めたことがあり、ジョークを交えながら接してくれたそうです。

しかし、アメリカの対日感情はやはりよくありません。そこで選手団はブレザーの胸には日の丸ではなく日本水連のマークをつけていましたが、それでも現地のムードは悪く、地元の新聞は日本の記録にことごとくケチをつける記事を掲載し続けました。そんな中でも大会の初日の予選から新記録を連発した廣之進は、「フジヤマのトビウオ(The Flying Fish of Fujiyama)」の愛称をつけて称賛されるようになりました。町で会う人たちも記念品をポケットにねじ込んでくるほどでした。日本チームは出場した自由形(リレー含む)の6種目中5種目を制し、9つの世界新という大活躍をします。廣之進も400メートル、800メートル、1,500メートルの3種目をすべて世界新記録で泳ぎました。800メートルリレーでも世界新のアンカーを務めました。最後のレースを終えたとき、廣之進の「パンツがほしい」といった人がいました。その場で脱いで渡すと、下にはいていたフンドシまで要求され、廣之進はそれも差し出しました。相手はヘルムス・スポーツ記念財団の館長で、のちに数多くの有名選手の記念品にまじり、そのフンドシ(FUNDOSHI)も展示されることになったのです。さらに、帰国後はマッカーサーからの賛辞を受けることができました。

翌年2月から約3カ月間、全米水泳にでた3人の仲間と南米5カ国を回りましたが、ブラジルで「消毒済み」といわれた水を飲んだところ、アメーバ赤痢に感染してしまいました。公表すれば隔離されてしまうというので、廣之進はじっと部屋に閉じこもり、移動するときに出てついていくのがやっとという状態だったそうです。しかも、帰国後も後遺症には長く悩まされました。以前のようには身体がいうことをきかず、その夏の日米対抗大阪大会では880ヤード自由形で敗退。2着になったのは宝塚国体以来のことでした。大学を卒業することもあり、選手生活を引退しようとしましたが、戦後初かつ16年ぶりの日本のオリンピック参加にあたって、それは許されることではありませんでした。結果として、1952(昭和27)年のヘルシンキオリンピックでは、400メートル自由形で8位という不振に終わってしまったのです。

この時、実況を担当したNHKの飯田次男アナウンサーは涙声で「日本の皆さま、どうぞ、決して古橋を責めないで下さい」と述べました。それほどフジヤマノトビウオ・古橋廣之進の敗退はショックな出来事だったといえます。こうして選手生活はこのシーズンで終了しました。病気のせいとはいえ、さびしい終わり方でした。

後進を育成、日本水泳界の顔に

古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(愛称:ToBiO)

オリンピック後、大同毛織(現・ダイドーリミテッド)に入社しました。そして入社2年目の2月から年末まで、羊毛バイヤーの資格をとるため、会社からオーストラリアの羊毛学校へ派遣されることになりました。この在豪経験が買われ、1956(昭和31)年のメルボルンオリンピックの水泳チームマネージャーを務めることとなります。これ以降、日本水泳連盟の役員となり、不振だった水泳界再建の目的で競泳委員長に就任して10年計画を作りました。 その最初の成果が、1972(昭和47)年、ミュンヘンオリンピックでの2選手の金メダルとなって表れたのでした。

また、1966(昭和41)年からは会社員をやめ、日大の教職について指導に当たりました。また、日本水泳連盟ではその後、会長を1985年~2003年まで務め、国際水泳連盟でも1976年から副会長としての職務を果たしました。1990(平成2)年から1999(平成11)年までは日本オリンピック委員会(JOC)会長として、冬季オリンピック長野大会の成功に尽力しています。

2008(平成20)年にはスポーツ界から2人目となる文化勲章を授与されました。その翌年には故郷の浜松市に古橋廣之進記念浜松市総合水泳場(愛称:ToBiO)がオープン。こうしたことから、いまでも静岡の子どもたちは誰もが「フジヤマノトビウオ」のことを知っています。2009年からは競泳日本代表の愛称が「トビウオジャパン」に決まりました。廣之進をあらわす「トビウオ」はいつまでも日本水泳界のシンボルだということでしょうか。

この年の8月、ローマの国際水泳連盟総会に参加していた廣之進は、現地のホテルでひっそりとその生涯を閉じました。80歳でした。

「魚になるまで泳げ」「なによりも大切なことは”集中”することだ」と言い続けた廣之進。努力はたくさんの世界記録となりましたが、オリンピックには縁がありませんでした。しかし、後進の育成に活躍し、トビウオの名前はこれからも消えることがありません。戦後日本を明るく勇気づけたその泳ぎは、これからも語り継がれていくことでしょう。

<参考サイト>
JOC公式サイト
浜松歴史のとびら

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