歴人マガジン

「なつぞら」剛男さんと田辺組合長のモデル!?太田寛一と十勝の酪農

「なつぞら」剛男さんと田辺組合長のモデル!?太田寛一と十勝の酪農

まもなく最終回を迎えるNHK朝の連続テレビ小説「なつぞら」。アニメーション制作にまい進するなつ(広瀬すずさん)の姿に心を惹かれますが、人気の軍配はやはり北海道編にあがるようです。草刈正雄さん演じるじいちゃんこと柴田泰樹をはじめとした人々の広く優しい心と北海道の大地がシンクロして視聴者を惹きつけているのでしょう。

北海道でなつと姉妹のように育った夕見子(福地桃子さん)は農協に就職し、田辺組合長(宇梶剛士さん)や父・剛男(藤木直人さん)ら地元の仲間たちと協力し、乳製品を製造する会社を作ることに尽力しました。なつが描いたロゴのかわいい雰囲気が印象的だった、たんぽぽバターの会社「十勝乳業」のモデルとなったのは「よつ葉乳業」だと思われます。そこで、いまでも北海道から安全・安心かつおいしい乳製品を届けてくれるよつ葉乳業の歴史をご紹介します。

十勝で生まれたバター

よつ葉乳業は北海道に本社を置き、「北海道のおいしさを、まっすぐ」の言葉を掲げています。この言葉はキャッチコピーであるとともに、同社の理念をあらわすものです。

よつ葉乳業の製品は、北海道以外でもスーパーなどで見かけることができます。リーズナブルとはいいがたい、ちょっとぜいたくな価格ではありますが、品質に信頼がおかれており、たくさんのファンがいます。国の基準をクリアした「特選」の文字がパッケージに書かれているのも見逃せません。「帝国ホテル」の名前を冠したバターもよつ葉乳業の製品。乳酸菌で発酵させ、ヨーグルトのような酸味を加えて仕上げられた特別なものなのです。

よつ葉乳業のふるさとは北海道十勝地方。酪農が盛んな十勝は、加工前の牛乳である「生乳」の生産量が日本一です。十勝の音更町は牧場が広く果てしなく続くような土地ですが、その中心に位置するのがよつ葉乳業でも最大の工場、十勝工場です。十勝で生産される生乳のおよそ半分がここに集積し、年間60万トンの生乳がここで加工されます。

バターは8割以上が北海道で作られていますが、その中でもよつ葉乳業はずっと大手を抑えトップシェアを誇っています。そのほかの製品も人気で、乳製品の業界では、4位にあります。一度口にするとファンになってしまうその味に、会員登録する人も多いようです。なぜなら、会員には受注生産した作りたての製品を送ってくれるサービスもあるのです。

酪農会社になるまでの苦労

いまでこそ、全国で愛されているよつ葉乳業ですが、ここに至るまでは大変な道のりがありました。よつ葉乳業の前身、「北海道協同乳業」の創業は1967年で、十勝の八つの農協が集まって酪農家のために作った会社でした。この戦いが、なつぞらでも描かれ、なつが「たんぽぽバター」のイラストを描く元となっています。

よつ葉乳業は北海道の酪農家資本の会社です。わが国の経済の高度成長は1960(昭和35)年頃に始まり、翌年には「農業基本法」ができました。「所得均衡・自立経営・選択的拡大」をとなえるこの法律をもとに農業政策が展開されました。しかし、高度成長下にあっても農民たちが期待したようなよい成果は上がりませんでした。そのため、離農する人が後を絶えなくなってしまったのです。

離農の動きが大きかったのが北海道です。多額の費用が掛かる機械化への移行や、土地柄から数年ごとに起こる冷害によって農民たちの負担は増え続け、非常に苦しい生活をしいられていました。そこで、生産した農畜産物を加工して付加価値を高め、農業収入の安定を図るべきだとの認識が農民に生まれたのです。こうして、ジャガイモでんぷん工場、ビート工場などが建設され、所得の向上に大きな成果を上げていきました。

一方で、酪農家もまた危機的な状況におかれていました。酪農家たちは大手の乳業メーカーと直接契約を結んでいたため立場が弱く、言い値で買い叩かれることは日常茶飯事だったのです。そのために北海道の生乳は日本最安、酪農家は8割が赤字という事態に陥っていました。北海道の酪農はまさに危機に瀕していたのです。その時立ち上がったのが、よつ葉乳業の創業者である太田寛一という人物でした。まだ若いものの、北海道十勝管内士幌農協組合長でありホクレンの地区常務理事をつとめ、「北の闘魂」と呼ばれる情熱の男でした。太田はなんとか北海道の酪農を立て直したいと、酪農の先進国であるヨーロッパを視察しました。そこで見たのが、酪農家自らが工場を建ててチーズを作る様子でした。当時のヨーロッパでは、生産者自ら加工販売する6次産業化が進んでおり、市場の8割を占めていたといいます。

太田寛一という男

1915(大正4)年、北海道十勝の開拓村に生まれた太田寛一。凶作の年はもちろん、豊作の年でさえ農作物の相場に左右される不安定な経営を強いられる農村の様子を見て育ちました。農民の暮らしをゆたかにするために寛一の出した結論は、前述のとおり、農民自身が農産物の加工を手がけ、より高い付加価値を付けて販売するというものでした。そして、酪農においても酪農家たちが自分たちで地域の乳業メーカーに出資し、生産から流通まで一体となって取り組んでいく。そして地域が買い支えるという形を作ろうとしました。

「牛乳に限らず農産物は、生産者が自ら加工して付加価値を高めて販売することが大事だ。そうすることで地域が発展するのだ」――こうした信念のもとで、太田寛一は酪農王国への一歩を踏み出すこととなったのです。

農村ユートピア計画

ヨーロッパ視察を経て、太田は自分たちで加工工場を作る「農村ユートピア計画」を実行するべく行動に移りました。取引先の大手メーカーには極秘で近隣の8農協のトップを招集、「生産者が加工販売しなければ未来はない」と訴え、農協の出資で酪農家のための会社を設立する話をまとめたのです。そして、乳製品工場を実現させるという誓約書を作成し、各農協のトップが判を押しました。1966(昭和41)年に「生産者団体自らが乳製品工場を持ってもよい」という内容の農林省畜産局長(当時)通達が出されたことも後押ししたのでしょう。十勝管内農協組合長・ホクレン・北海道に工場建設の協力が要請され、ホクレンは工場建設の支援と資本参加を決定。十勝農協連・士幌農協を始めとする十勝管内8農協も、それぞれ会社設立発起と株式取得を決議しました。

とはいえ、そのころはまだ製品化の技術を太田たちは持っていませんでした。そこで全酪連(全国酪農業協同組合連合会)に協力してもらうことになりました。極秘に進められてきた計画でしたが、いよいよというところで乳業メーカーは大田たちの動きに気づき、阻止しようと動き始めます。乳製品工場の建設を進めようとすると妨害工作がおこり、建設業者の裏切りにもあいました。

こうした試練もありましたが、酪農家たちの結束は固く、1967(昭和42年)1月に帯広市での設立総会をひらき、翌23日に登記完了をもって正式に会社が発足、工場の建設が開始されました。そして10月、酪農家のための工場がついに十勝に完成したのです。最新鋭の輸入機械を中心とした十勝工場(現在の十勝主管工場)では、バターと脱脂粉乳の製造が開始されました。当時はめずらしかった搾りたてに近い味が特徴的で、容器も瓶をやめて紙パックを採用するなど、新しい戦略を続々と打ち出してヒットを生み出すうち、酪農家たちも無事に生活していけるだけの糧を得られるようになったのです。

太田寛一記念室と「おいしさまっすぐ館」

現在のよつ葉乳業本社がある北農ビル(札幌市)

太田寛一は、1935(昭和10)年に上帯広産業組合に勤務しはじめてから、1982年(昭和57)年に引退するまで、47年間の長きにわたり農協運動にたずさわってきました。その功績は国からも認められ、1980(昭和55)年には藍綬褒章を授けられます。その4年後の1984(昭和59)年に逝去すると、翌年には「北海道開発功労賞」を受賞しました。酪農家のために戦った生涯が認められたのです。

いま、わたしたちが何気なく手に取るよつ葉バターですが、その裏には太田寛一を中心とした酪農家たちの、自立への闘志と並々ならぬ苦労があったのです。北海道河東郡士幌町の農協記念館には太田寛一記念室があり、その足跡をたどることができます。また、十勝にあるよつ葉乳業十勝主管工場の見学施設「おいしさまっすぐ館」では、牛乳やバターの製造をしているところを見られる他、酪農や乳業について楽しく学べます。在りし日の北海道での奮闘を、そして乳製品が身近でおいしいことをあらためて知るために、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。

<参考サイト>
よつ葉乳業「十勝主管工場見学のご案内」
JA士幌町「農協記念館」

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