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【織田信長の子供たち】天下人の子は織豊期をどう生きたか?

【織田信長の子供たち】天下人の子は織豊期をどう生きたか?

2020年の大河『麒麟がくる』では戦国武将・明智光秀が主役として描かれますが、光秀が仕えた主君の織田信長がどのように描写されるかも注目でしょう。
信長は本能寺の変で謀反を起こされ自害したことで知られています。信長の死後は秀吉が政権をとったため織田政権は長く続きませんでしたが、そのような激動の戦国時代を信長の子供たちはどのように生きたのでしょうか?
今回は、信長の子供の人数や、彼らにつけられた個性的な名前、また残された子供たちの人生についてご紹介します。

信長の子供たちの人数は?

そもそも信長にはどのくらい子供がいたのでしょうか?
あまり話題になりませんが、実はかなりの人数がいたようです。

男女合わせて20人以上いた!?

信長には少なくとも20人ほどの子供がいたといわれています。男子が11~12人、女子も12人ほどで、同世代の武将と比べるとかなり多い人数です。信長は49歳で亡くなっていますが、その間に多数の子孫を残したことになります。

個性的な名前(幼名)が面白い!

当時の日本では幼名があるのが普通でしたが、のちに名前が変わるためどんな幼名だったか知られていないこともあります。信長は子どもたちにとても個性的な幼名をつけており、その理由もまたユニークです。

  • 嫡男・織田信忠:奇妙丸(きみょうまる)…生まれたとき顔が奇妙だったことから
  • 次男・織田信雄:茶筅丸(ちゃせんまる)…抹茶をたてる道具の名前
  • 三男・織田信孝:三七(さんしち)…3月7日に生まれたことから

主な子供たちは正室の子ではなかった?

多くの子供がいた信長ですが、これらの母親は正室ではありませんでした。主な子供を産んだのは、側室の生駒吉乃(いこまきつの)だと言われています。

正室:濃姫との間には子供がいなかった

豊原国周作の『善悪三拾六美人 阿能局(濃姫)』です。

信長の正室は美濃国の戦国大名・斎藤道三の娘である濃姫(帰蝶)です。史料がほとんどなく謎とされる部分が多い濃姫ですが、通説では政略結婚で信長に嫁いだとされています。
二人の間には子供がなかったといわれており、『勢州軍記』『総見記』では、信長の御台所(みだいどころ/妻のこと)が若君に恵まれなかったので、側室が生んだ奇妙丸を養子にして嫡男に据えたといった記述がみられます。

関連記事:【織田信長の妻】斎藤道三の娘、謎多き濃姫の生涯と嫁いだ理由とは

吉乃は信長最愛の女性といわれる

嫡男や次男を産んだ生駒吉乃は、夫が戦死して実家に戻っていたところを見初められ、信長の側室になりました。
彼女の長男・信忠が嫡子となったことで正室に近い扱いを受けており、一説には信長最愛の女性だったともいわれています。彼女が亡くなったとき、信長は号泣して深く悲しんだのだとか。死後は香華料660石を信長から贈られています。

残された子供たちの人生とは?

20人以上いるとされる子どもたちのうち、判明しているのは11人です。
ここでは、おもに活躍した嫡男から五男までの人生をご紹介します。

嫡男:織田信忠

総見寺蔵の織田信忠像です。

信忠(のぶただ)は織田弾正忠家当主を継いだ人物で、信長の後継者として早くから戦に参加しました。室町幕府の将軍・足利義昭の信長包囲網に呼応した武田氏と対立したときは、総大将を務めて武田軍を撃退。雑賀攻めでは雑賀孫一らを降伏させるなど活躍しました。
天正4年(1576)には織田家の家督および美濃東部と尾張国の一部を譲り受け、岐阜城主になっています。その後は信長に代わって諸将を率いるなど総帥としても功績を残しました。
天正10年(1582)備中高松城を包囲する秀吉を援護するため京都・妙覚寺に滞在していたところ本能寺の変が勃発。信長自害の知らせを受けると、光秀を迎え撃つため二条新御所に篭城したものの、最期は自害しました。

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次男:織田信雄

総見寺蔵の織田信雄像です。

信雄(のぶかつ)は紆余曲折の人生を送っています。北畠具房(ともふさ)の養子となりその妹・雪姫(千代御前)を娶ったのち、具房や北畠家の家臣らを殺害、財産や所領を奪取します。
戦には何度も参加しましたが、勝手な行動や敗走により、織田家では無能とみられていたようです。信長も一時は親子の縁を切ろうとしたといわれています。信長が建てた安土城を失火で焼いたこともあり、ルイス・フロイスの『日本史』でも厳しい評価が下されています。
信長が死去した後は、弟・信孝と領地争いを繰り広げ、徳川家康と手を組んで小牧・長久手の戦いを誘発しました。これにより秀吉とは敵対関係になりましたが、のちに家康に無断で和睦し家臣になっています。しかし領地替えの命令に従わなかったため流罪になり、天正20年(1592)家康の仲介で赦免され大名に復帰。最期は隠居生活で茶道などを楽しんだようです。

三男:織田信孝

歌川国芳の『太平記英勇傳:丹部侍従平春高(神戸信孝)』です。

信孝(のぶたか)は次男の信雄よりも先に生まれましたが、母親の身分が低かったため三男という位置づけになっています。彼は伊勢を治めていた神戸家の養子となり、楽市楽座や検地を行い伊勢の発展に努めました。
信孝は信忠軍の配下ながら信長の側近としても活動しており、本願寺教如が退去する際に信長に随行したり正親町天皇からお香や紙を賜ったりしています。調停や交渉も任されていたようです。
四国攻めでは総大将に任命されたものの、その間に本能寺の変が勃発。兵が足りなかったため、秀吉と合流して名目上の総大将となり光秀を討ちました。
その後、柴田勝家によって織田家の後継者に推薦されましたが、信忠の嫡男・三法師が後継者に決まり秀吉と対立するようになります。賤ケ岳の戦いでは勝家についたものの、勝家が自害したため秀吉に降伏。最期は尾張知多郡野間の大御堂寺にて自害させられました。

四男:羽柴秀勝

滋賀妙法寺蔵の羽柴秀勝像です。

秀勝(ひでかつ)は、天正7年(1579)に秀吉の養子になり、秀吉に従って戦に参加しました。母は養観院といわれていますが、彼女の素性は不明で詳細は定かではありません。
政治的には秀吉から近江北部の長浜支配を任されており、秀吉が不在の時には13歳の秀勝が署名を代行していたことがわかっています。天正10年(1582)秀吉の中国征伐に従って初陣を果たし高松城攻めにも参加。信長死後は秀吉の中国大返しに同行して山崎の戦いに参戦しました。秀吉主導で行われた信長の葬儀では喪主も務めています。賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いにも参加しましたが、この頃から体調が悪化し、丹波亀山城で18年の人生に幕を下ろしました。

五男:織田勝長

勝長(かつなが)は、岩村城主・遠山景任が亡くなった後に養子として岩村城に入りました。しかし武田氏の攻撃により落城し、和議を結ぶ条件として武田信玄の養子になり人質生活を送ります。武田家のもとで元服した勝長は、天正9年(1581)に織田家に返還され犬山城主になりました。
本能寺の変で兄・信忠とともに戦い、光秀の軍勢に攻撃され二条御新造で奮戦したのち討死。詳しい年齢はわかっていませんが、20歳代だったと推定されています。

多くの子孫を残した

信長は享年49歳でこの世を去るまでに多くの子供を残しました。そのほとんどは詳細がわかっていませんが、11人の子供たちは激動の織豊期を信長の子としてしっかり生き抜いたようです。その生きざまはそれぞれ異なり、信長とともに本能寺の変で散った者や、隠居生活を謳歌した者など、バラエティに富んでいます。残念ながら信長の意思を継いで天下統一を果たす子供は一人もいませんでしたが、その血筋は今でも受け継がれています。

 

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