戦国時代には名だたる武将が合戦を繰り広げましたが、その中でも印象深い戦いの一つが「川中島の戦い」ではないでしょうか?
この戦国合戦は学校の授業では深く掘り下げない合戦ですが、当時強い影響力をもっていた有力武将が対立したことから、歴史的意義があるものと考えられています。
今回は、川中島の戦いの背景や経緯、その結果や戦後の影響などについてご紹介します。
押さえておきたいポイント
・北信濃の支配権を巡り、武田信玄と上杉謙信が5度にわたって戦った
・激戦だった第四次の戦いが川中島を中心に行われたため「川中島の戦い」と呼ばれている
・明確な決着はついていない
川中島の戦いの背景・経緯
そもそも二人はなぜ戦うことになったのでしょうか。その背景と戦いの経緯について振り返ります。
背景
この当時、室町幕府の第13代将軍・足利義輝が三好長慶との戦いに敗れ、幕府の権威は失墜していました。そのため地方権力が台頭し、守護が戦国大名として勢力を増していったのです。
東日本では駿河国の今川氏や相模国の北条氏が台頭しており、それに隣接する甲斐国は武田氏が治めていました。領土拡大を目指していた武田信玄は、西信濃に侵攻して村上義清などの豪族を制圧。その勢力は信濃国のほぼ全域に広がり、脅威を感じた北信濃国人衆の高梨氏らが、越後守護代の長尾景虎(のちの上杉謙信)に援助を求めます。謙信は高梨政頼と縁戚関係にあったこともあり、この北信濃の戦いに介入しました。
経緯
第一次合戦は天文22年(1553)に起こり、「布施の戦い」「更科八幡の戦い」ともいわれています。
信濃の大部分を制圧した信玄は、残る北信濃の獲得を目指していました。砥石城などの諸城を攻略された義清は謙信の援軍により居城・葛尾城を奪還しますが、立てこもっていた塩田城を攻められ越後に逃亡します。
これを受け北信濃に出陣した謙信は、次々と武田軍を撃破。しかし決戦は行われず両軍ともに国に帰りました。
第二次合戦が行われたのは天文24年(1555)のことで、約200日も対陣したといわれるこの戦いは「犀川の戦い」とも呼ばれています。
天文23年(1554)信玄は北条氏と今川氏とともに「甲相駿三国同盟」を締結。北条氏と共同で上杉氏と対決することにした信玄は、謙信の有力家臣・北条高広に反乱を起こさせます。またその翌年には信濃国衆・栗田永寿を味方につけ、長野盆地の南半分を勢力下に入れました。
謙信は善光寺奪回のため長野盆地北部に出陣し、永寿と武田軍が立てこもる旭山城の正面に葛山城を築いて動きを封じます。これを受けた信玄は川中島に出陣し、両軍は犀川を挟んで対峙しましたが、最終的には今川義元の仲介で和睦します。その条件として、信玄は一度獲得した北信国衆の旧領の復帰を認めました。
第三次合戦は弘治3年(1557)に起こり、別名「上野原の戦い」といわれています。
信玄は和睦後も調略を進めており、謙信の家臣・大熊朝秀が武田方に内通して挙兵するなどの事件が勃発。さらに謙信方の前進拠点だった葛山城を落とし、高梨政頼の居城・飯山城に接近しました。
謙信は北信濃の武田方の諸城を落として長野盆地の奪回を図りましたが、武田軍が決戦を避けたため飯山城にひきあげます。のちに上野原で合戦が行われたものの、大きな戦果はなく両軍ともに帰国しました。
永禄4年(1561)に行われた第四次合戦は「八幡原の戦い」ともいわれ、大規模で多くの死傷者を出しました。
この戦いの2年前、謙信は将軍・義輝に拝謁し正式に関東管領職に就任。これにより謙信に歯向かうものは賊軍とみなされることになり、関東平定を目指す謙信は北条氏康を討つ大義名分を得ました。
関東大名のほとんどを味方にした謙信は約10万人の軍勢を獲得し、氏康の居城である小田原城を包囲します。氏康は籠城して耐え、同盟関係にある信玄に援助を要請しました。これを受けた信玄は北信濃に侵攻し、川中島に海津城を築いて謙信の背後を脅かします。そのため謙信は小田原城の包囲を解いて越後に帰還。改めて妻女山に布陣し、茶臼山(または塩崎城)の武田軍と対陣したのです。
武田軍は、山本勘助と馬場信房による「啄木鳥(きつつき)戦法」を採用します。これは兵を二手に分けて、別働隊に妻女山の上杉軍を攻撃させ、上杉本軍を八幡原に追いやって挟み撃ちするという作戦でした。この策の通り、高坂昌信・信房ら武田別働隊が妻女山に向い、信玄本隊が八幡原に布陣しましたが、これを見抜いた謙信は夜のうちに妻女山を下り、渡河地点に別働隊を、自身は八幡原に布陣します。これにより武田軍本隊は信玄の弟・武田信繁や勘助ら名だたる武将を失い、武田本陣は壊滅寸前に陥ったのです。
その後、妻女山にいた武田別働隊が武田本隊と合流。挟撃された上杉方は徹兵し、信玄も追撃を止めたため合戦は終結しました。この戦いでは双方が勝利を主張しており、明確な勝敗はついていません。
第五次合戦は永禄7年(1564)に起こり、「塩崎の対陣」ともいわれています。
謙信は氏康との戦いを続けており、信玄は常に謙信の背後を脅かしていました。そんななか、飛騨国の国衆同志の争いが武田・上杉氏の対立と相関していきます。信玄は陸奥の蘆名盛氏と手を組み、蘆名軍が越後を攻めている隙に飛騨に侵攻。蘆名氏を倒した謙信は川中島に侵攻して信玄と対峙しますが、決戦せずに両軍は撤退しました。
これ以降、信玄は東海道、美濃、上野に勢力を拡大し、謙信は関東出兵に力を注ぎます。そのため、川中島で戦う意義は失われたのでした。
登場人物
【武田軍】
武田信玄(武田晴信)
武田信繁
山本勘助
飯富虎昌
高坂昌信
真田幸隆(真田幸綱)など
【上杉軍】
上杉謙信(長尾景虎 / 上杉政虎)
直江実綱
柿崎景家
甘粕景持
村上義清など
戦の概要
年月日:天文22年(1553)~永禄7年(1564)
場所:信濃国川中島(千曲川沿い)
交戦勢力:武田軍 VS. 上杉軍(長尾軍)
結果:決着つかず
兵力:
上杉軍:武田軍
第一次 8000人:10000人
第二次 8000人:12000人
第三次 10000人:23000人
第四次 13000人:20000人
第五次 不明
何が変わったのか?
信玄と謙信が信濃で戦いを繰り広げているあいだ、西では織田信長が台頭していきました。
武田氏は織田氏と関係を深め、上杉氏と外交を行った今川氏を攻撃。これにより甲相同盟が破綻し上杉氏と同盟を組んだ北条氏から圧力をかけられましたが、その後の武田氏と上杉氏は本格的な抗争をしていません。
武田氏では、信玄の跡を継いだ勝頼が武田家臣の意見を聞きいれず、長篠の戦いで武田氏滅亡のきっかけを作りました。一方の上杉氏は、信長死後に武田遺領を争奪する天正壬午の乱に参戦しましたが、その後は秀吉により会津米沢へ移封されています。
まとめ
信長にとって両氏は脅威だったため、どちらかの勝利もしくは二人の同盟が叶っていれば、歴史が大きく変わっていた可能性もあります。そのような観点から、川中島の戦いは日本史上、重要な戦いともいえるでしょう。
この戦いは、武田氏の軍学書『甲陽軍鑑』をもとに現代に受け継がれていますが、今なお詳細がわかっていない部分も多いようです。
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