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【室町幕府管領:細川晴元】政権確立から没落までの波乱の人生

【室町幕府管領:細川晴元】政権確立から没落までの波乱の人生

足利将軍家による室町幕府は、将軍の権威失墜により管領が実権を握るようになりました。その後は動乱の戦国時代へと突入しますが、ちょうど時代の転換期に翻弄されたのが、第34代管領に就任した細川晴元です。彼は争いの末にようやくその立場を手にいれたものの、実権をもつ最後の管領となりました。
今回は、晴元の管領就任への道のり、政権確立から没落までの経緯、また対立し続けた三好長慶との対比などについてご紹介します。

細川京兆家の内乱中に誕生した晴元

晴元が生まれたのは、同族が争いあう厳しい状況での出来事でした。苦境のなかで生まれた晴元は、どのように育ったのでしょうか?

劣勢のなか7歳で家督相続する

親子で対立することになった細川高国の像です。(京都・東林院像)

晴元は、永正11年(1514)細川澄元の子として誕生しました。正室は公卿・三条公頼の娘で、妻の妹の三条夫人は武田信玄の継室として知られています。
この当時、父は細川京兆家の家督を巡って同族の細川高国と争っていました。父の死により7歳で家督を継承した晴元は劣勢にあり、仇敵の高国は事実上の天下人として君臨していました。しかし晴元は、高国側に内部分裂がおこった隙をついて挙兵します。高国は管領の身分を利用して将軍・足利義晴を擁立したため、晴元も義晴の弟・足利義維(よしつな)を擁立しました。

高国を破り「堺公方府」を創設

大永7年(1527)晴元は高国との決戦に勝利し、義維を将軍とした「堺公方府」という擬似幕府を作ります。しかし、ここまで力を合わせてきた家臣・三好元長と険悪になり軍事力が低下。そこに再起をかけた高国が侵攻したため、摂津国の大半を制圧されたうえ京都も奪回されました。こうして危機的状況に陥った晴元は、元長と和睦し高国軍を大破。高国の死により、亡き父の仇を討ったのです。

戦いの果てに入手した管領職

ようやく高国との決着がついた晴元でしたが、その後も争いは続きました。晴元の管領就任までの道のりはどのようなものだったのでしょうか。

将軍・義晴と和睦し、三好元長と敵対

晴元に追い込まれることになった三好元長の像です。(見性寺蔵)

高国を滅ぼした晴元は、堺公方府として政権を奪取するという今までの方針を変え、将軍・義晴と和睦して自分が管領に就くことを考え始めます。これにより高国討伐の功労者だった元長と再び敵対。元長を邪魔者と考える畿内の国衆が集まり、その後、本願寺の法主・証如に一向一揆の蜂起を依頼して、元長を敗死させることに成功します。また、不和状態になっていた義維も阿波国に追放しました。

三好長慶を家臣にして管領に就任

義晴と和睦した晴元でしたが、蜂起後に乱行を重ねていた一向一揆軍の鎮圧にてこずります。そこで対立宗派であった法華宗と協力して一揆を誘発させ、山科本願寺を攻撃。また天文3年(1534)には元長の嫡男・三好長慶と和睦して家臣に組み入れると、勢力を伸ばしていた法華衆を壊滅させ、敵対する高国の弟・晴国も討ちとりました。そしてついに、管領になって幕政を支配したのです。

晴元政権の確立と没落

管領の地位を手にした晴元でしたが、その権力は長くは続きませんでした。家臣にした長慶との対立は、やがて晴元を破滅に追い込んだのです。

細川氏綱の反乱を鎮圧

天文8年(1539)長慶が同族の三好政長と争い、政長の肩をもった晴元は長慶と対立するも最後には和睦します。そのような状況のなか、高国の養子・細川氏綱が打倒晴元の兵をあげ、その2年後にも高国派による反乱が勃発。晴元は長慶らを率いて鎮圧しましたが、氏綱の再挙兵により摂津国のほとんどを奪われてしまいます。晴元は長慶と協議のうえ反撃し、天文16年(1547)に氏綱方を倒して摂津を平定しました。

長慶に挙兵され敗走する

ようやく反乱を鎮めた晴元ですが、政長追討を願い出た長慶の訴えを却下したことがきっかけとなり、かつての敵であった氏綱と手を組んだ長慶に反旗を翻されます。江口の戦いと呼ばれるこの戦で多くの配下を失った晴元は、追撃を恐れて近江国坂本に逃亡しました。

足利義輝を擁立し京都奪回を計るが…

晴元は将軍・足利義輝らとともに逃亡したため、京都には将軍と管領が不在でした。そこに長慶と氏綱が上洛し、幕府の実権を掌握。さらに長慶と義輝が和睦すると、義輝の上洛とともに氏綱が細川家当主になります。
晴元は何度も京都奪回を計りましたが、勢力が拡大する三好軍には勝てず、最後は幽閉され普門寺で死去しました。その後、京兆家は没落の一途をたどり、晴元以降は誰も管領に任命されなかったのです。

晴元と長慶の明暗とは?

大徳寺・聚光院蔵(京都国立博物館寄与)の三好長慶像です。

晴元は長慶と対立して敗れましたが、世間の評価においても長慶に軍配が上がっているようです。二人の明暗をわけた大きな違いとは何だったのでしょうか?

晴元は権力で長慶を抑え込んだ

天文8年(1539)長慶は晴元を酒宴に招待し、河内十七箇所の代官職を与えるように迫りました。しかし晴元は聞き入れなかったため、長慶は幕府に直接訴えています。この代官職はもともと長慶の父が担っていましたが、その死後は政敵の政長が任命されていました。
権力で長慶を抑えた晴元は、戦いでも裏切りを繰り返したため、家臣の離反を招いて破滅したといえるでしょう。

細川昭元を元服させた長慶

晴元は長慶に対し嫡男・細川昭元を人質に出していましたが、そんな事情も顧みず長慶と争い続けました。しかし長慶は昭元を殺すことなく元服させています。昭元が豊臣政権時代まで生き続けたのも、長慶が寛容だったからでしょう。
長慶は晴元を追い詰めるたび、とどめを刺さずに戦いを終えています。このようなやり方は甘いとの評価もありますが、晴元とは対照的なその性格が、勝利の一因だったといえるかもしれません。

実権を持った最後の管領

細川京兆家をまとめ管領となった晴元は、家臣である長慶の反乱により没落し、最後までその権威を取り戻すことはありませんでした。一説には、晴元はそもそも管領に任命されていなかったのではないかともいわれています。しかしどちらにせよ、管領という地位に振り回され、戦いが絶えない人生だったといえるでしょう。
こうして室町幕府や管領家の権力は衰退し、織田信長をはじめとする戦国武将の時代が到来するのです。

 

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