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【最後の将軍、慶喜の誕生秘話 Part.2】なぜ将軍は「御三家」「御三卿家」から誕生したのか?

2020年9月15日(火)より、チャンネル銀河で放送される本木雅弘主演の大河ドラマ「徳川慶喜」。前回に引き続き、水戸藩に生まれた慶喜が、どんな経緯で「最後の将軍」となったのかについて、詳しく解説したい。

御三家のうち、なぜ紀州しか将軍が出なかったのか?

慶喜が生まれ育った水戸藩は、尾張・紀州と並ぶ徳川家の親藩「御三家」のひとつであったことはよく知られている。この御三家とは、徳川家の血統が絶えてしまわないようにと、初代の家康が息子たちを藩祖に据えて創設した家だ。

上の図のとおり、家康を初代とする徳川将軍家は、延宝8年(1680)に4代家綱が嫡男をもうけずに40歳で死去。幕府創設77年で直系男子が早くも途絶えてしまった。家康の心配が早くも的中したわけである。そこで同じ家光の息子で、家綱の弟・綱吉が5代将軍となった。あの「犬公方」といわれた綱吉である。

だが、この家光の血統も7代・家継が、わずか8歳で夭折する不幸に見舞われ、正徳6年(1716)に再び絶えてしまう。そこで御三家から初めて迎えられた将軍が、8代吉宗であった。当然、この将軍就任には綱吉が藩主を務めていた上州舘林家や、同じ御三家である尾張徳川家との熾烈な争いがあったが、それを制する形で紀州の吉宗が将軍の座を勝ち取ったのだ。

徳川吉宗銅像(和歌山市)

吉宗は「享保の改革」などに積極的に取り組み、その成果が評価されるが、功績はそれだけではない。のちの将軍家を存続させたという点でも文字通りの「幕府中興の祖」であった。それは系図を見ると一目瞭然で、9代から14代までの将軍は全員が吉宗の子孫にあたるためだ。尾張・水戸が14代目まで一人の将軍も出せなかったのに比べ、紀州徳川家の血統からは7名も将軍が出ているのは注目に値しよう。

御三家の筆頭とされた尾張家が結局、一人の将軍も出すことができずに終わったのはなぜか。じつは将軍・家継が亡くなったとき、尾張家は6代藩主の徳川継友が次期将軍候補に推され、紀州家・吉宗との後継者争いになったのだが、これに敗れたことが後々まで尾を引いたのだ。

その理由は何より吉宗による「御三卿」の創設が大きかった。慶喜が養子に入った一橋家をはじめ、田安家・清水家の三家は、いったいどんな経緯でできたのか。

「御三卿」の成立で、紀州家の将軍後継を確定させた

御三卿は、江戸時代の最初からあったわけではなく、8代将軍・吉宗が新設したものだ。吉宗は自身が将軍就任することになった経緯と反省から、御三家に次ぐ家格を持つ家を江戸城内に創設することを思いつく。これは悪く言えば、紀州家で将軍の座を独占しようとしたとも解釈できる。
ともあれ、まずは次男の宗武(むねたけ)に田安門そばの屋敷を与えて田安家とする。そして四男の宗伊(むねただ)には一橋門そばに屋敷を与えて一橋家とした。さらに長男・家重(9代将軍)の次男で、自分の孫でもある重好(しげよし)には清水門そばに屋敷を与えて清水家とした。

江戸時代後期の江戸城絵図。赤く囲った門の外に一橋・田安・清水(御三卿)の屋敷があった。慶喜も当然、水戸から引っ越してきてからは一橋邸に住んだ。

こうして成立した御三卿はそれぞれ10万石を与えられ、それぞれ同等の家格を持った。吉宗の見立てどおり、紀州家の血統は10代家治が世継ぎを残せなかったことで早くも絶える。そこで跡を継いだのが、一橋家・宗伊の孫にあたる家斉(いえなり)だった。
御三卿のなかでは、田安と清水家の血筋は早々に絶えたが、一橋家は子宝に恵まれ、他家への養子入りも多く、将軍と御三卿当主が一橋家の血筋で占められることになる。ただ、家斉の弟で3代当主の斉敦(なりあつ)以降は当主の早世が続き、8代・昌丸(おさまる)も2歳で亡くなったため、ついに一橋も一度は断絶の憂き目をみる。その跡を継ぐために養子入りしたのが慶喜だった、というわけなのである。

慶喜は将軍候補になるのを嫌がっていた?

大河ドラマ「徳川慶喜」より ©NHK

こうしてみると、将軍・家斉や家慶が、そろって慶喜を一橋家に養子入りさせたがった理由が理解できよう。水戸家にいるよりも一橋家に入ったほうが、将軍就任に早道であることが明確だったのである。

だが、当の慶喜はどう思っていたのだろう。それを示すのが、黒船来航(1853年)後に起きた将軍継嗣問題のさいに漏らした(斉昭への手紙に書いた)言葉である。

「骨折れ候故、(中略)天下を取り候て後、仕損じ候よりは、天下を取らざる方、大いに勝るかと存じ奉り候」(『徳川諸家系譜』「水戸様系譜」より)

つまり「骨が折れるし、失敗するよりはやらないほうがいい」と父に述べていたのだ。一橋家への養子入りも将軍候補への擁立も、すべて周りが決めたことで、そこに本人の意思が介在する余地はなかった。大人になって世情がわかってくるにつれ「自分には荷が重い」と感じるようになっていたのかもしれない。そう考えると気の毒な限りだ。

それから時は流れ、13代・家定の世継ぎをどうするかで揉めた「将軍継嗣問題」(1857年)は幕政を二分する政治抗争となった。慶喜は当時21歳になっていた。その慶喜を推す斉昭や松平慶永らと、家茂を推す井伊直弼ら譜代大名を中心とした両派による対決が起きた。そして抗争の結果は、紀州家の血統を継ぐ家茂が14代将軍となることで決着する。その最大の要因は、家定の指名によって、井伊直弼が幕府最高職の「大老」に就任したことが決め手となった。これは家定自身も、同じ紀州家の血を継ぐ家茂のほうを推したかったとみていいだろう。

父の死と桜田門外の変で、政局の表舞台へ

井伊は、この問題以外にも生じていた諸問題(日米通商航海条約をめぐるトラブルなど)による反対派を次々と罰していった(安政の大獄)。斉昭と慶喜も登城禁止や水戸への隠居・謹慎を申しつけられた結果、斉昭は事実上政治生命を絶たれてしまう。そして謹慎を命じられた翌年の万延元年(1860)、水戸で亡くなった。

慶喜が父・斉昭の書簡集『源烈公真筆』の表紙に書いた題字。「篇々深切」は、斉昭が座右の銘としていた言葉であることを慶喜は説明している。

この処分は水戸藩士たちを怒りに駆り立て「桜田門外の変」(1860年)の勃発の直接的な要因にもなった。この事件で大老の井伊が水戸藩の浪士らに殺害されるに及び、政局はいよいよ混迷をきわめていく。
そして慶喜も、その事件をきっかけに謹慎を解かれ、政界の場へと復帰。父・斉昭の無念を晴らしたいとの思いも彼の胸にあったかもしれない。ともかく混乱する幕末の動乱のなか、24歳で将軍候補にまでなった慶喜には周囲の期待も大きかった。否応なしに政局の表舞台に立ち、将軍後見職や禁裏御守衛総督という要職に身を置いて活躍する。禁門の変(1864年)では、みずから兵を陣頭指揮して長州勢と戦った。そして6年後の慶応2年(1866)、家茂の死によって、鳴り物入りでの将軍就任にいたるのである。

文・上永哲矢


大河ドラマ「徳川慶喜」
放送日時:2020年9月15日(火)スタート 月-金 朝8:00~
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/movie-detail/series.php?series_cd=27021
出演:本木雅弘(徳川慶喜)、菅原文太(徳川斉昭)、石田ひかり(美賀)、大原麗子(れん/語り)、堺正章(新門辰五郎) ほか
制作:1998年/全49話

 

画像:大河ドラマ「徳川慶喜」©NHK


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