今から約570年前の1429年に成立してから、およそ450年間にわたって存在した琉球王国。その王都として栄えたのが首里城である。沖縄の城は「城」と書いて「グスク」と呼ぶが、この首里城は慣例的に「しゅりじょう」と呼ばれ、その意味では本州の城と同じ呼び方がなされている。
沖縄の城は小高い丘に築かれ、中国の長城にも似た城壁に取り囲まれているのが特徴だ。日本の本土の石垣に似た積まれ方で、まさに日中両国の文化の「いいとこどり」のような独特の姿をしている。敷地内に御嶽(うたき)と呼ばれる宗教的な聖地も設けられていて、その文化もまた沖縄特有だ。
首里城が燃えている……その驚くべき一報が入ったのは、令和元年(2019)10月31日の朝のことだった。深夜2時35分ごろ、首里城正殿から出火して正殿や北殿がほぼ全焼、実に8棟の建物が焼損するという被害に及んでしまったのである。
「お城が燃えたなんて信じられなかったし、何かの間違いじゃないかと……」
幾人か沖縄の人と話す機会があったが、みな、大体そんなことを言っていたことを思い出す。沖縄のシンボルともいえる首里城、その中心的な建物が焼けてしまったのだから、沖縄人(ウチナンチュ)の方々のショックは、計り知れないものがあったはずだ。
昨年の火災から約1年たって、やっと首里城を訪ねることができた。個人的には15年ほど前に訪ねて以来。正殿に通じる奉神門をくぐって、正殿前の広場(御庭=うなー)に出た。
そこに、もうあの立派な正殿はない。以前は大勢の観光客でにぎわっていた広大な御庭の眺望もない。そこには今、工事用の足場が組まれ、見学用の通路をつくるための柵や資材などが見えるだけだ。かつて国王や中国皇帝の使者・冊封使が闊歩した、美しい敷き瓦の床も首里城の象徴だった。今は、復興につかう資材や見学通路のためのフェンスなど、いろいろなものが置かれ、床が見通せなくなっている。
火災からすでに1年が経っているため、焼け落ちた当初の生々しさはない。ただ火災後の残存物が、その焼けようを見学者に公開するために置かれ、被災の様子を伝えている。正殿の偉観などは失われていて残念ではあるが、城内のいたるところで、工事関係者の方々が汗を流している様子がみられた。
人類の歴史は、破壊と復興の繰り返し……。とくに、城というものは、その象徴なのかもしれない、そう改めて思える。人がつくったものは災害による消失(焼失)とは無関係にはいかない。そしてまた、復興のために努力する人々の姿も本当に尊いものだ。
もちろん今回の火災は大変な損失ではあるが、とはいえ、首里城全体が焼けたわけではない。正殿は城の中核ではあるが、一部に過ぎない。本土の城が天守だけではないのと同様、沖縄の城も随所に見所がある。久慶門(きゅうけいもん)や漏刻門(ろうこくもん)、「東のアザナ」などの建物や、城を囲む長大な城壁は、もちろん健在だった。
首里城は、琉球國時代に建てられたものが現存していたわけではない。その長い歴史において何度も火災に遭ってきた。国王の政務室であった正殿にしても、16世紀の創建から昭和20年(1945)の太平洋戦争下の沖縄戦までに4度焼失し、7度も建て直されているのだ。
とくに沖縄戦では、建物のほとんどすべてが破壊され、昭和25年(1950)にはその跡地に琉球大学が建ち、昭和50年代に大学が中頭郡(なかがみぐん)に移転するまで、首里城=琉球大学のキャンパスだった時代が四半世紀以上もあったのだ。
正殿を中心とする多くの建物が復元されたのは、それから半世紀を経た平成4年(1992)。歴史を振り返れば、火災に遭っても、首里城はそのたびに不死鳥のごとくよみがえってきた城である。
焼失から間もなく1年。現地では着々と復興が進んではいるが、まだ時間がかかるようだ。このうえは一刻も早い復興を心待ちにしたいが、一方で、その復興途上の今しか見ることのできない姿を見に行くのも、応援につながるはず。ひとりでも多くの方に、その奮闘の姿を目の当たりにしていただきたい。
首里城復興サイト
https://www.shurijo-fukkou.jp/
文・上永哲矢