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【烈公:徳川斉昭】日本最大の藩校・弘道館を創った幕末期の名君

【烈公:徳川斉昭】日本最大の藩校・弘道館を創った幕末期の名君

令和3年(2021)の大河ドラマ『青天を衝け』では、実業家・渋沢栄一とともに最後の将軍・徳川慶喜もクローズアップされます。この慶喜の父親として知られるのが、水戸徳川家第9代藩主・徳川斉昭(なりあき)です。気性が激しく「烈公」の異名を持つ斉昭は、どのような人物だったのでしょうか?
今回は、斉昭のうまれから家督相続まで、藩政改革や幕政参与の内容、斉昭の人物像などについてご紹介します。

うまれから家督相続まで

徳川御三家の一つ・水戸徳川家にうまれた斉昭。彼が家督相続するまでには紆余曲折あったようです。

行く先が決まっていなかった斉昭

斉昭は寛政12年(1800)水戸藩の江戸小石川藩邸で、第7代藩主・徳川治紀(はるとし)の三男として誕生しました。治紀には4人の男子がおり、長兄の斉脩(なりのぶ)は次代藩主に、次男と弟は養子にいくことが決まっていましたが、斉昭だけは30歳まで行く先が決まらず部屋住みだったといいます。これは斉脩の控えとしてわざと残されたとも考えられており、水戸学を学んでいた斉昭は聡明さを発揮していたようです。

第9代水戸藩主に就任

文政12年(1829)第8代藩主になっていた斉脩が跡継ぎを決めずに病床に伏したことから継嗣問題が勃発します。家老・中山信守を軸とした門閥派は、第11代将軍・徳川家斉の第21男かつ斉脩正室・峰姫の弟だった恒之丞(徳川斉彊)を養子に迎えようとしましたが、下級武士や学者らは斉昭を推しました。この対立により斉昭派が無断で江戸に陳情するといった騒ぎまで起きましたが、斉脩死後に見つかった遺書により斉昭が家督を継承します。

全国に影響を及ぼした藩政改革

藩主となった斉昭はさまざまな改革に着手しました。その影響は全国に広まるほどだったようです。

藩校・弘道館の設立

弘道館の正門。現在では国指定重要文化財になっています。

斉昭は藩政の一環として弘道館を設立し、門閥派を押さえて下級武士からも人材を登用しました。弘道館では武道のほかにも科学、諸学問などの教育や研究が進められ、学問は一生行うものという考えから卒業はなく、若者から高齢者まで分け隔てなく学んだようです。当時の藩校としては規模が大きく、長州藩の「明倫館」、岡山藩の「閑谷黌(こう)」とならんで日本三大学府の一つといわれています。また、第2代水戸藩主・徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の影響を受けた水戸学の舞台にもなりました。

藩政改革で手腕を発揮する

弘道館の設立のほかにも斉昭はさまざまな藩政改革を行っています。参勤交代をせず江戸に定住する江戸定府制の廃止、藩士の土着、全領検地や大規模軍事訓練の実施、また農村救済のために稗倉(ひえぐら=飢饉に備えた稗などの備蓄倉庫)を設置しました。さらには、国内での西洋兵器の生産や蝦夷地の開拓、大船建造の解禁などを幕府に提言。この斉昭の藩政改革は、水野忠邦の天保の改革にも影響を与えたといわれています。

仏教抑圧の末、謹慎処分に

また、斉昭は寺院から没収した釣鐘・仏像を大砲の材料として用い、僧侶による民衆管理を神官の仕事にしました。このような政策は神仏分離・廃仏毀釈の先駆けとなりましたが、のちにこれらの仏教弾圧が罪に問われてしまいます。斉昭は幕命で嫡男・慶篤(よしあつ)に家督を譲ることになり、強制的な隠居と謹慎を言い渡されました。しかし、その後に実権を握った門閥派の結城寅寿が横暴な振る舞いをしたことから斉昭の復権運動が行われます。こうして斉昭は謹慎を解かれ、嘉永2年(1849)に藩政に復帰しました。

幕政参与と将軍継嗣問題

藩政改革を成功させた斉昭は幕政にも関わるようになります。しかし、ここでも激しい対立が起こりました。

水戸学をもとに攘夷論を主張

嘉永6年(1853)マシュー・ペリーが浦賀に来航し、斉昭は老中首座・阿部正弘の要請で海防参与として幕政に関わります。水戸学の立場から攘夷論を主張した斉昭は、江戸を防衛するための大砲を大量に鋳造し、洋式軍艦とともに幕府に献上。安政4年(1857)堀田正睦が老中首座に就任するとさらに攘夷論を強め、開国を推し進める井伊直弼と対立しました。

一橋慶喜を擁し、井伊直弼と対立

狩野永岳による井伊直弼の肖像画(彦根城博物館所蔵品)

井伊との対立はそれだけに留まらず、病弱だった第13代将軍・徳川家定の将軍継嗣問題にも波及しました。井伊をはじめとする南紀派が徳川慶福(家茂)を擁したのに対し、斉昭は実子・一橋慶喜を擁して一橋派を形成。しかし、安政5年(1858)に家定が重体に陥ると、南紀派は井伊を大老にして家茂の名前で慶福を後継者にすると発表しました。こうして斉昭は政争に敗れ、大老になった井伊は日米修好通商条約に独断で調印します。これらの問題をめぐり江戸城に無断登城して井伊を詰問した斉昭でしたが、この行動により幕府中枢から排除され謹慎を命じられました。

永蟄居と最期

その後、孝明天皇による「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」が水戸藩に下されます。これは、朝廷の勅許なく日米修好通商条約に調印したことを受け、天皇が水戸藩に幕政改革を直接指示するという事件でした。これを知った井伊は激怒し、安政の大獄により江戸の水戸屋敷で謹慎していた斉昭に水戸での永蟄居を命じます。斉昭は幕政に返り咲くことなく、万延元年(1860)蟄居処分のまま水戸で急逝。死因は心筋梗塞といわれ、長期間の蟄居が死につながったといわれています。

斉昭の人物像とは?

茨城県水戸市にある、徳川斉昭の像です。

周囲と対立しながらも自身の主張や意志を貫いた斉昭。彼はどのような人物だったのでしょうか?

幕府の援助金も返上!倹約家だった

水戸家は幕府から毎年1万両の援助金を受けていましたが、斉昭はそれを返上して節約を心掛けていました。家督相続して先代藩主と同じ食事を出されたときは、「御三家の高い格式では表向きのものは変えられないだろうが、食事などの内向きのことには金をかける必要はない」として、部屋住みのころの食事内容に変えさせたといわれています。

子供は37人?!大の女好きだった

斉昭は女好きとしても知られており、兄の正室や元大奥女中にとどまらず、長男の正室・線姫にまで手を出したといわれています。そのためか子供は37人もいたそうです。しかし、斉昭は大奥の浪費を問題視しており、大奥の女性たちからは嫌われていたのだとか…。また、寵愛する側室の地位を引き上げた際、衣装代として金を無心されたことに激怒し、それ以降は目通りを許さなかったという逸話も残されています。

激しく精力的に幕末を生きた

烈公の贈り名の通り、幕末の日本を精力的に生き抜いた斉昭。永蟄居でこの世を去るという残念な最期でしたが、弘道館の創立や藩政改革の成功といった功績から名君といわれています。彼もまた幕末の歴史に名前を刻んだ人物の一人といえるでしょう。大河ドラマ『青天を衝け』では、竹中直人さんがこの斉昭役を務めます。慶喜の父として、幕末の烈公がどのように描かれるのか注目ですね。

 

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