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【三国志:張飛】『正史』の最期は意外すぎる?怪力豪傑の生涯と人物像

【三国志:張飛】『正史』の最期は意外すぎる?怪力豪傑の生涯と人物像

中国・三国時代の歴史書『三国志』において、関羽とともに劉備の片腕として活躍した張飛。『三国志演義』の影響もあり、酒好きで豪快な人物という印象をもつ人が多いのではないでしょうか。しかし『正史』での人物像はそれとは少し異なり、その最期も意外なものになっています。張飛はどのような人物だったのでしょうか?
今回は張飛について知りたい人に向けて、劉備との出会いから長坂の戦いでの活躍、益州平定と最期の迎え方、張飛の人物像などについてご紹介します。

義勇兵からの飛躍

張飛は劉備と出会い、大きく飛躍していきました。義勇兵から劉備軍の主将になるまでの張飛について振り返ります。

関羽とともに劉備に従う

張飛は涿郡のうまれで、実家は肉屋を営んでいたといわれています。字は益徳、または翼徳。黄巾の乱の義勇兵として関羽とともに劉備の徒党に加わり、以後、劉備を主君として立てて護衛を務めました。3人は兄弟のような関係で、とくに張飛は劉備・関羽より年少だったため、2人を兄のように慕っていたようです。やがて劉備が公孫瓚(こうそんさん)に取り立てられて平原郡の相となると、張飛は別部司馬(武官の一種)に就任。関羽とともにそれぞれ軍の指揮を執る将となりました。

大失態!?留守を任されたが……

興平元年(194)徐州に身を寄せていた劉備は、陶謙に位を譲られて徐州牧に就任。その後、徐州に侵攻してきた袁術と戦いになり、張飛は本拠地の下邳の留守を任されました。このとき劉備に身を寄せていた呂布が下邳を攻撃し、張飛と対立関係にあった下邳の相・曹豹がこれに呼応。この戦いに敗北にした張飛は、劉備の妻子を捕虜にされるという失態を犯してしまいます。その後、劉備は呂布と和睦するも再び対立し、曹操のもとに身を寄せました。曹操・劉備連合軍が呂布討伐を始めると、張飛はこれに参戦して功績をあげ、曹操から中郎将に任命されます。しかし、ほどなくして劉備が離反。曹操のもとを去った劉備は袁紹・劉表に身を寄せ、張飛もそれにつき従いました。

長坂の戦いで活躍!

建安13年(208)劉表の死により曹操が荊州に侵攻すると、劉備は江南へと逃亡します。曹操から逃れ当陽県・長坂に到着した劉備は、さらなる曹操の追撃に妻子を放棄して逃亡。このときわずかな兵で殿(しんがり)を引き受けた張飛は、敵軍を追い払うため橋を焼き落とし、「俺は張飛だ!俺と勝負したいやつは出てこい!」と豪語したといいます。これを聞いた曹操軍は、誰も張飛に近づこうとしないままに撤退。こうして劉備は無事に助かりました。

張飛、劉備軍の主将になる

蜀漢の皇帝となった劉備の肖像です。

建安16年(211)劉璋に招かれて益州に入った劉備は、翌年に益州奪取を計画します。諸葛亮・趙雲らとともに侵攻した張飛は、劉璋軍との戦いに勝利し郡県を平定しました。この功績が評価され、褒賞を得るとともに巴西郡の長官に就任。建安22年(217)の漢中侵攻では敵方の曹洪・曹休らに苦戦し撤退したものの、2年後に劉備は漢中攻略を果たします。このとき張飛は、前線である漢中の守備を一任されるものと思われましたが、周囲からの人望がないことを理由に守備から外されてしまいます。しかし、劉備が漢中王に就任した直後に右将軍・仮節に就任し、劉備が蜀漢を建国すると西郷侯に昇進しました。

張飛の最期

次々と昇進を果たした張飛ですが、やがて最期が訪れます。『正史』と『三国志演義』ではどのような違いがあるのでしょうか?

『正史』:突然の最期

章武元年(221)劉備が呉への侵攻を計画すると、張飛は1万の兵を引き連れ、江州で劉備と合流することになりました。しかしその準備中、部下の張達・范彊(はんきょう)に殺されてしまいます。劉備は張飛の部下から上奏文が届いた瞬間、内容を聞くまでもなく張飛の死を悟って嘆いたといいます。『正史』での張飛の最期はこれだけで、何が理由で殺されたのか実際のところはわかりません。知名度の高い武将にもかかわらず、実にあっさりとした描写だといえるでしょう。

『三国志演義』:関羽の死に荒れ…

歌川国芳による関羽の肖像です。

一方、『三国志演義』には詳しい描写があります。孫権との戦いで死んだ関羽を思い号泣していた張飛は、酒に酔い、部下に鞭をふるって打ち殺すことがありました。やがて張飛は報復のために呉討伐を決心し、「3日以内に全軍白装束を整え出発する」と無理な命令を出します。とても間に合わないということで部下の張達・范疆が猶予を願い出ると、張飛は2人を鞭打ち「遅れたら首をはねる」と叱りつけました。2人は「どうせ死ぬなら……」と考え、泥酔して寝込んでいた張飛を刺殺。その首をもって呉に投降したのでした。

張飛の人物像とは

『三国志』では怪力の豪傑としても有名な張飛。彼はどのような人物だったのでしょうか?

1万の兵に匹敵する武勇

張飛は「1人で1万の兵に匹敵する」といわれるほど勇猛な人物で、曹操軍からも孫権軍からも高く評価されていました。『三国志演義』では、身長八尺(約184cm)でエラが張った顎に虎髭があり、雷のような声と暴れ馬のような勢いをもつ男として登場。ここでの張飛は蛇矛(だぼう)を自在に操る怪力の猛将として描かれています。また一騎討ちの名手という側面もあり、その剛勇さから呂布でさえ泥酔した張飛には警戒していたようです。

部下には厳しく冷酷だった?

張飛は低い身分から士大夫(したいふ、知識階級や官職)に出世しました。これを喜んだ彼は、知識人には紳士的な振る舞いをし、配下や身分の低い者には冷酷な態度をとったといいます。このような不遜な態度は、劉備からも常々注意されていたようです。『正史』で張飛が殺されたとあるのは、行き過ぎた処罰や振る舞いが常々あったからとも考えられています。

酒豪で酒癖が悪かった!?

張飛のイメージとして切り離せないのが酒でしょう。下邳の留守を預かったときは酒の飲みすぎで失態を犯し、最後は泥酔したところを部下に殺される……このように酒での失敗エピソード満載の張飛ですが、実は『正史』には酒に関する記録はありません。そのため、酒豪で酒癖が悪いという人物像は『三国志演義』での脚色のようです。

憎めない人柄で親しまれている

『三国志演義』で脚色された張飛像は、さまざまな創作作品で踏襲されています。そのため、関羽とは対照的にパワープレイの肉体派というイメージが強いかもしれません。しかしこれは、正史『三国志』での部下に厳しい張飛像に人間味をプラスするためのものとも考えられます。酒で失敗するという庶民的にも思える張飛像は、憎めない人柄として現在でも多くの人に親しまれています。

 

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