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【太陽王:ルイ14世】フランス絶対王政の全盛期を築いた国王

【太陽王:ルイ14世】フランス絶対王政の全盛期を築いた国王

ブルボン朝の最盛期を築き「太陽王」と呼ばれたフランス国王・ルイ14世。彼は積極的な対外戦争で領土を拡大し、「王権は神から付与されたものである」という王権神授説を掲げて絶対君主制を確立しました。また、ヴェルサイユ宮殿を建設したことでも有名です。しかし、目覚ましい功績の裏では、多くの国民が苦しんでいたようです。
今回は、ルイ14世の国王即位までの経緯、彼の親政と絶頂期、晩年とその後のフランスなどについてご紹介します。

フランス王として即位

ルイ14世はどのようにしてフランス国王になったのでしょうか?うまれから王位継承までについて振り返ります。

待望の王位継承者として誕生

幼いころのルイ14世と、母后アンヌ・ドートリッシュの肖像です。

ルイ14世は、1638年にルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュのあいだに生まれました。両親は不仲だったため23年も子供ができず、ルイ14世は待望の王位継承者だったようです。一方、本当の父親はルイ13世ではないという噂も広まりました。1640年、二人のあいだには男子・フィリップも誕生しますが、ルイ13世はアンヌを疑い、自分の死後に妻が影響力を持たないよう摂政諮問会議の設置を遺言したといいます。

母后アンヌの摂政とマザラン枢機卿の執政

1643年5月、父の死によりルイ14世は4歳でフランス国王に即位します。母后アンヌは夫の遺言を破棄して摂政になると、枢機卿マザランを実質的な宰相として起用。マザランは今までの政策を引き継ぎ、中央集権化の推進と三十年戦争への介入を続けました。しかし、戦費のために重税を課された民衆・貴族らの不満が募りフロンドの乱が勃発。この乱のあいだ、ルイ14世は数度パリ脱出を余儀なくされます。その後、フランスはスペインとの戦争に勝利し、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリー・テレーズ(スペイン名:マリア・テレサ)と婚約しました。

ルイ14世の親政

1661年3月、宰相マザランが死去し、ルイ14世による親政が始まります。彼はどのような政策をとったのでしょうか?

王族・大貴族を排除、王権を強化

ルイ14世は宰相を置かないことを宣言し、行政機構の整備に着手しました。王族・大貴族を国の最高機関である国務会議から排除し、新興貴族層やブルジョワ階層(市民階層)を登用。こうして大貴族らの権威を弱めることでルイ14世は王権を強化していきます。また、地方には地方監察官を派遣し、司法・財政・治安維持などの権限を与えました。これにより地方総督の大貴族らの権限は低下しましたが、一方で地方の名士を監察官補佐にするなど、うまく支配の安定を図りました。

財務総監・コルベールの政策

ジャン=バティスト・コルベールの肖像です。

ルイ14世は財務総監にジャン=バティスト・コルベールを採用します。コルベールは破産しかけていた国家財政の再建策として、金銀保有量を増やすために輸入の制限と輸出の拡大を行いました。関税を高く設定し、国内の産業を保護。国による工場設立や資金の貸し付けも行っています。また、税制を効果的に運用し、国家の債務を削減しました。1669年には海軍卿にも就任し、海軍力を強化しイギリスやオランダの海外市場に割り込むべくフランス東インド会社を再建。植民地経営に積極に乗り出し、北アメリカのミシシッピ川周辺に広大な領土を得ました。

影響力の拡大と絶頂期

ルイ14世の影響力は強まり、やがて絶頂期を迎えます。この頃のルイ14世はどのような行動を起こしたのでしょうか?

戦争による領土拡大

ルイ14世はフランスを中心とするヨーロッパ体制を計画していました。彼にとって障壁は海外貿易で富を築いていたオランダでしたが、まずは弱体化していたスペインが標的となります。1665年に義父・スペイン王フェリペ4世が亡くなりカルロス2世が即位すると、異母姉である王妃マリー・テレーズのスペイン領土の遺産帰属権を主張しフランドル戦争(帰属戦争)を起こしました。これに危機感を覚えたオランダ・イギリス・スウェーデンは三国同盟を締結し、ルイ14世は和平締結を余儀なくされます。しかし、1672年にはイギリスとフランスが手を組みオランダに侵攻。これに勝利したフランスは、ヨーロッパでの影響力を拡大させました。

ヴェルサイユ宮殿の造営

造営初期のヴェルサイユ宮殿

1660年代ごろから、ルイ14世はヴェルサイユ宮殿の建設を開始しました。これはルイ13世が狩猟の館として使っていた城館を改修・拡張したもので、ルイ14世の晩年まで工事が続けられたといいます。建設事業にあたったのは、当時一番の建築家と言われたル・ヴォーや、造園の名師ル・ノートルなどです。最高の職人を招いて完成した宮殿はバロック建築の代表作とされており、ルイ14世の治世を象徴するものとなりました。
フランス王家は代々パリ市内の王宮を転々としていましたが、1682年5月以降はヴェルサイユ宮殿に固定されます。こうして政治の中心はパリからヴェルサイユへと移り、王を頂点としたフランス絶対王政が確立しました。

カトリック信仰の強化とナント勅令の破棄

1683年、王妃マリー・テレーズが亡くなり、ルイ14世は寵姫マントノン侯爵夫人と秘密裏に結婚します。彼女は王妃ではなかったものの、国王の決定に影響を与えたとも考えられているようです。その1つが宗教問題で、ルイ14世はローマ教皇と交流を深め、カトリックの強化を目指してジャンセニスト(厳格主義信仰運動)やユグノー(フランス・プロテスタント)を弾圧しました。1685年には自由信仰を認めたナント勅令を破棄し、国内で反乱が起こります。ルイ14世はこの混乱を武力で鎮圧すると、国外への亡命者を追跡して虐殺しました。

長く続いた侵略戦争

その後も侵略戦争は続き、1688年にはアウクスブルク同盟戦争(ファルツ戦争、大同盟戦争)が起こります。神聖ローマ帝国の公領ファルツで男子相続者が絶えた際、ルイ14世は弟の妃が同家出身だとして領土を要求し侵攻しました。これに対しヨーロッパ諸国は対仏のアウクスブルク同盟を結成。この戦いは1697年のレイスウェイク条約で終結します。
次に狙ったのは広大な植民地から莫大な利益を得られるスペイン王位継承権で、ルイ14世は縁戚関係から孫のアンジュー公フィリップの継承権を主張。これに対しヨーロッパ諸国はハーグ同盟を結成し、スペイン継承戦争が勃発します。この戦いの結果、フィリップはスペイン王になりましたが、フランスは領土や植民地を多く失いました。

晩年とその後のフランス

晩年のルイ14世とその家族

幼くして即位し積極的に政治を推し進めてきたルイ14世ですが、やがて最期が訪れます。彼の死はフランスにどのような影響を与えたのでしょうか?

民衆に歓喜された死

晩年、長年にわたる戦費で国家財政は破綻しかけており、フランス国民は重税で困窮しきっていました。そんな中、1715年9月1日、ルイ14世は77歳の誕生日を前にしてこの世を去ります。民衆は王の崩御を歓喜し、葬列に罵声を浴びせたそうです。ルイ14世は72年もの在位期間を誇りましたが、これはフランス史上最長であり、「中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物」としてギネス世界記録にも認定されています。

そしてフランス革命へ

ルイ14世の死後、ひ孫にあたる5歳の王太子がルイ15世として即位しました。ルイ14世は死の床で「自分のようになってはならない」と王太子を戒めましたが、その言葉も空しく、ルイ15世は多くの戦争を繰り広げます。彼の治世は60年近く続いたものの、崩御時にはフランスの財政は破綻寸前でした。次代のルイ16世はこの苦境を乗り切れず、やがてフランス革命へと突入していきます。

ヨーロッパ最大の国力を築いた

侵略戦争で領土を拡大し続け、ヨーロッパ最大の国力と陸軍力を築いたフランス国王ルイ14世。しかし、戦費によって財政は悪化し、民衆は重税に苦しみました。国力を示す事業の1つとして造営されたヴェルサイユ宮殿は、後に起こるフランス革命の舞台としても有名です。ルイ14世を代表するこの宮殿は、現在、フランス随一の豪華絢爛さを誇る観光地となっています。


歴史ドラマ「ヴェルサイユ」
放送日時:2021年4月12日(月)スタート 月-金 深夜0:00~ ※スカパー!第1話無料放送
番組ページ:https://www.ch-ginga.jp/detail/versailles/
制作:2015年(S1)、2017年(S2-3)/全30話(各シーズン10話)
作品概要:フランス国王ルイ14世が造った絢爛豪華なヴェルサイユ宮殿。そこは愛や肉欲、政治における激しい戦場であり、貴族を拘束する黄金の監獄でもあった。愛憎渦巻く宮殿を舞台に、“太陽王”と呼ばれたルイ14世の若き日を描く歴史ドラマ。


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